井伊の赤鬼を育てた女城主井伊直虎の教育とは

新参者でありながら徳川家康の天下取りに大いに貢献し、後に徳川四天王と呼ばれるまでにその功績を讃えられた井伊直政。
関ヶ原の合戦後には石田三成の旧領、琵琶湖北東岸の要衝に加増されるなど家康の信頼を一身に集めた知勇の将でしたが、その幼少期はとても過酷なものでした。

そしてその過酷な井伊家の運命の中で、直政を「徳川四天王」に育て上げた養母・井伊直虎の人生もまた過酷なものでしたが、その運命の中で彼女は直政をいったいどのように育て上げたのか。
その生き様は今を生きる私たちにも大いに教訓を与えてくれています。

■井伊家の没落と断絶の危機

井伊氏は元々、遠江の井伊谷城一帯を支配する国人でしたが、駿河の今川氏と甲斐の武田氏の強国に隣接し、常に引き抜き工作と裏切りの謀略に翻弄され続けました。

そのため直政以前、井伊家の当主には不幸が続き、直政の曾祖父にあたる直宗は今川氏の三河城攻めで戦死、後を継いだ直盛は桶狭間の戦いで信長軍に敗れ、討死します。

直盛には嫡男がおらず、井伊家の直系には後の直虎となる姫君しかいなかったことから、直盛の従兄弟にあたる直親を直虎の婿養子に迎え跡取りとすることが決まっていました。
しかしながらその直親は、父の直満が武田氏との内通を疑われ、今川義元に謀殺されると身の危険を感じ信濃に身を隠し、その間に正室を迎え、一人の男子、後の井伊直政をもうけてしまいます。

直盛の戦死で直系男子を失った井伊家は信濃から直親を呼び寄せ当主としますが、既に正室を持ち嫡男をもうけていた直親の妻になることは、直系の姫として庶流の側室になることに耐えられなかったのでしょうか。
直虎は直親との許嫁を解消し、出家したとされています。

しかしながら井伊家の不幸はまだ終わりではありませんでした。

井伊家を継いだ直親は再び武田氏との内通を理由に義元の後を継いだ氏真に謀殺され、家督を預かった井伊直平や家臣団も相次いで今川の戦に駆りだされ、戦死すると、家中を支える一族がいなくなってしまいます。
直親の嫡男・井伊直政は未だ幼少で元服できるような年齢ではなく家督を継ぐことはできません。

このような厳しい状況の中で、直系の姫君にして直虎は、男性として生きることを決心。
女性でありながら井伊直虎を名乗り、井伊家当主として直政の養母となり、その元服までの後継者教育を始めます。

■「鬼」の後継者教育

家督を継いだ直虎の領内経営は困難を極めますが、一方で直政への後継者教育もまた一筋縄では行きませんでした。
直政の父・直親は謀殺されたものの生母は健在です。

直政の母にとって直虎は、本家筋とは言え自分は家督を継ぐ直政の生母。
直虎にとって直政の母は、許婚を奪われ直系正室の地位も奪われた相手。
しかも直虎にとって直政は、許婚が別に正室を置きその間に生まれた男子。

このような中、直虎は直政の生母と激しく対立したと思われますが、その干渉を押し切り、直政を縁のあった鳳来寺などに預け、家臣団の子供たちとともに主従の結束を固めさせ英才教育を受けさせました。

もはや直虎の直政に対する教育方針と、その目的意識は極めてシンプルなものだったことでしょう。

「必ず井伊家を再興させ、直政を井伊家中興の当主に育て上げる」

人は時に、生きる意味が定まり、その道筋が見えると強い信念が生まれ、周りを巻き込む強い行動力と指導力を発揮します。
自分の天命を悟り私心を捨て、井伊家再興を第一のプライオリティに置いた直虎の教育は厳しいものだったはずですが、やがて直政も自らの天命を悟り、自らの意思で直虎のもとで学んだようです。

そして徳川四天王・井伊直政が歴史の表舞台に登場することになります。

■徳川の家臣として

1572年、甲斐の武田信玄がその大軍勢を率いて駿河・遠江を併呑する野心を見せ南下すると、国境にあった井伊家の井伊谷城はあっけなく落城し菩提寺までも焼き払われますが、やがて信玄が病に倒れ軍勢が甲斐に退くと、直虎は井伊谷城を奪い返すことに成功します。

今川家に翻弄され武田家に蹂躙され続けた直虎はこの時、井伊家の将来を徳川家康に賭けることを決意。
15歳になっていた直政を家康に仕えさせるため、自ら縫い上げた正装服を与え鷹狩を楽しむ家康に拝謁させることに成功し、小姓として取り立てられた直政は以降、徳川家の天下取りに無類の知勇で貢献していくことになります。

井伊家中興の祖となった直政はやがて家康の重臣となり、井伊家は幕末まで要職にあり続けましたが、その井伊家の骨格を作り家訓を築いたと言っても過言ではない井伊直虎。

江戸四大道場と言われた剣術に「心形刀流」がありましたが、その極意に、
「万策が尽き打つ手がなくなった際には、一瞬足りとも迷わず捨て身の積極的に出よ」
と言うものがあります。

直虎にとってはまさに人生がその連続だったことでしょう。
目的はシンプルに、行動は素早く積極的に。
そのような教育を受けた直政が家康の側でどのように活躍したか、歴史が示すとおりです。

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