真田の家紋「六文銭」に込められた意味とは

2016年の大河ドラマ「真田丸」で、一躍有名となった六文銭。真田がこれを家紋とするまでには、どのようなエピソードがあったのでしょうか。

■真田幸村と「六文銭」。家紋は「六文銭」だけじゃない?

大河ドラマ「真田丸」でも取り上げられた真田幸村。日本一の兵ともいわれるほど戦が強いと有名です。境遇としては恵まれていなかった真田幸村ですが、その壮絶は武功と忠義のために戦う姿に惹かれる人が多いようです。

その真田家が付けている家紋が「六文銭」。六文銭を知らない人はいないのではといわれるほど有名ですが、実は家紋は六文銭だけではなく「結び雁金」(むすびかりがね)、「州浜」(すはま)などがあります。
これらは六文銭の利用頻度が高くなり、あまり表に出なくなりました。今回は真田幸村と「六文銭」についてご紹介していきたいと思います。

■「六文銭」のいわれ

真田家の家紋となった「六文銭」が、家紋となるまでには諸説あります。

一つは、武田家滅亡後、北条氏との一戦時、夜襲を行った際のこと。真田勢は「永楽通宝」を描いた旗を掲げることで、北条勢に「永楽通宝」の紋所掲げる家臣の謀反だと錯覚させ、夜襲を成功させました。この時に掲げた「永楽通宝」を「六文銭」に変化させ家紋としたという説。

一つは、六文銭が仏教での「六道銭」という三途の川の渡し賃であるというところから、決死の覚悟で戦うという意気込みから家紋にしたという説。ちなみにですが、六文銭とは現在の価値で約300円。三途の川に向かった際に六文銭を持っていれば、衣服を奪われずに安心と思われていたといわれています。

どちらの説であったとしても、真田幸村が戦国の世を戦い尽くす心意気の表れが出ていると思われます。また「六道銭」の意味を込めて家紋にしたのであれば、戦国の世の人生を全うした後に、きちんと死後の世界に送るような意味を含めた可能性もあります。

■義理高い「真田幸村」の存在が六文銭の認知度を上げた?

現在も歴史上の登場人物の中で高い知名度を誇る「真田幸村」。多くの逸話の中でも有名なのは、徳川家康との「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」の一戦です。

この戦いでは、徳川家康から徳川軍として戦うよう好待遇で誘われますが、豊臣との義理を取って不利な戦場へ向かいます。そして家紋である「六文銭」を掲げずに戦いに望みます。これは徳川軍に兄・信幸を思っての配慮であったといわれております。義理だけではなく人情も持ち合わせていた人物だったと考えられ、益々人間的な魅力の高さを感じます。

しかしここで素晴らしい戦果を上げて、一度は徳川家康を敗戦まで想定させて切腹する寸前のところまで追い込んだとされております。寸前のところで撤退を余儀なくされますが、この結果から戦術、戦闘能力の高さがうかがえます。

そして最後は、安居神社にいたところを討たれて戦死しました。その際に敵兵に向かって手柄にせよと自分の首を差し出したといわれており、最後の潔さも人間の品格の高さを感じます。

享年49年の人生に幕を下ろした真田幸村ですが、彼の残した歴史が現在まで六文銭と一緒に語り継がれているところから、家紋を託され、後の世代に残すという目的を果たせたといえるのではないでしょうか?

現在の日本で生きていれば、きっと日本を背負っていくような成果を残すスペシャリストになっていたかもしれません。

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