人間、人生の中において一度はのるかそるかの大博打をうたねばならぬ時がある。明治の元勲として名をとどめ、初代総理大臣ともなった伊藤博文にも、その時があった。
俗論派で占められた長州藩政権
伊藤は、長州下級武士の出身。吉田松陰の松下村塾に学び、高杉晋作、井上聞多らと倒幕運動に加わった。22歳のときには、長州藩の代表として秘密裏にイギリスに渡航。しかし四ケ国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知ると、井上聞多とともに急ぎ帰国し戦争回避に奔走する。
当時長州藩は攘夷派の総本山のような立場にあり、諸国との戦争を回避に奔走した伊藤は、井上、高杉晋作と共に藩内外から自らの信念を曲げて外国列強に与したと批判をされ、命をつけねらわれることになる。
四ケ国戦争の後、長州藩は正義派と呼ばれる攘夷推進政権が倒れ、俗論派と呼ばれる幕府恭順政権が発足する。時おりしも幕府が第一次長州征伐の陣触れを出し、幕府軍以下26藩が長州に攻め入ることとなる。恭順政権は、攘夷を推進した重臣を処刑するなど徹底して幕威の前にひれ伏す体制をとる。
当時長州藩には、諸隊と呼ばれる軍事部隊があった。高杉晋作が作り上げた奇兵隊、諸藩の脱藩浪士が集った遊撃隊、力士が集った力士隊など、身分制度にとらわれない武士階級と農民や町民が混合された部隊だ。武士が主体となった正兵と区別され、かつ長州藩内にて一級の武力を備えていた。
しかし恭順政権の前に動きをとることができず、諸隊は事態の推移をただ見守るしかなかった。このままでは恭順派の思いのままとなり、攘夷の火は潰えるかと思われた時、暗殺の危険から藩外に逃亡していた高杉晋作が帰藩。奇兵隊を軸にクーデターを起こし、一気に情勢を挽回しようとする。
命をくれてやろうとの決意
さて、問題はその後だ。諸隊合わせても人数は800名足らず。恭順派に与する正兵は2000名強。どうしたって勝ち目がなく、諸隊は動こうとしない。業を煮やした晋作は、わずかな人数での挙兵を決意する。
そのとき伊藤博文は、どうしたか。どう考えても高杉晋作の挙兵は暴挙であり、失敗すると伊藤自身は考えていた。しかし、いままでの行きがかり上、晋作に命をくれてやろうと決意したのだ。晋作は、唯一の同志となった伊藤に、10名でもいいから同志を集めることを命じ、下関に向かわせた。
もともと武士階級の出ではなかった伊藤は、まともに馬に乗れない。必死にたてがみにしがみつきながら、「俺はもう死んでいるのだ、死んでいるのだ」と自らに言い聞かせながらただ一騎夜道を下関に向かったという。
結果わずか80名で蜂起した高杉晋作一派は、長州藩が有していた洋式船3隻を奪取。その快挙は奇兵隊をも動かし、ついには時の政権軍との決戦に至ることになる。もちろん旧態依然とした銃器、戦法での武士(政権軍)たちは、洋式銃をもった奇兵隊たちの敵にはならず、激闘のうえ、ついにクーデターは成功した。
難局の振る舞いが人生を変える
じつはそれまでの伊藤は、身分が低いうえに才子というイメージがつきまとっていた。松下村塾に関わっていたがゆえに晋作や桂小五郎といった長州を代表する人物の尻馬に乗り、外国人を襲ったり、英国公館焼き打ち事件を起こしていた。その立場はちょっと気のきく使い走り的な扱いであり、晋作の手駒に過ぎなかった。
しかし自らの命を的にクーデターに参加して以降、伊藤はそれまで以上に藩において重き役につくようになる。維新後明治政府内においてはついには参議にまで登りつめ、明治憲法の制定の中心的な存在となり、やがて内閣総理大臣(しかも4度も!)を拝命するまでになるのだ。
「俺は死んでいる」と言い聞かせクーデターに参加した伊藤博文。一流とされた人材が幕末の争いのなかで次々と命を失っていったこともあるが、のるかそるかの大博打に賭けた性根は評価されてもいい。難局に直面したときの人間の振る舞いにより、その後の人生を大きく変えることができるよい例であろう。