「律儀」という信頼から生まれた。徳川300年の太平。
徳川家康は、「たぬきおやじ」というイメージがつきまとうが、実際は戦国いちばんの律儀者といわれている。
「たぬきおやじ」のイメージは後世に
徳川家康は、煮ても焼いても食えぬ「たぬきおやじ」というイメージがつきまとうが、それは最晩年の大阪城攻略にかかわる策謀を取り上げ、後世の歴史家が作り上げたものらしい。家康は、史上まれな長期にわたる平和国家となった徳川家の万代にわたる礎を築こうと腐心し、実際にそれを為した。
江戸幕府創世期、大阪城には旧主君となる豊臣秀頼がいて、その存在自体が徳川家の仇となるものとなっていた。しかも秀頼は20代前半。70歳を越える家康にとっては、それは脅威でしかない。せっかく家康に味方をする豊臣恩顧の大名たちも、2代将軍・秀忠には見向きもせずに、秀頼のもとに伺候するに違いない。
その恐怖が、家康にして理不尽ともいえる豊臣家に対する難癖、策謀へとつながったのである。結果家康は大阪冬の陣、夏の陣を勝ちきり、安祥として大往生。徳川家はその後300年にわたり安泰となった。
戦国時代を彩る武将は、まさにキラ星のごとく存在したが、「信用」という一点では徳川家康が随一であったとされる。それは幼くして自らの領地を大大名である今川義元に管理されることになったり、その後自らの家来に売られるような形をして織田家の人質となったりと辛酸を嘗め尽くした経験があったからに違いない。その教訓から、飛躍を望まぬ律儀な性格の人になったとされる。
絶対に違約をしなかった家康
その真骨頂が、かの織田信長と結んだ織田・徳川攻守同盟に現われる。戦国の世には、攻守同盟などは、それこそはいて捨てるほど結ばれた。そのほとんどが長く守られたことはない。たったひとつの例外が、この織田・徳川両家の同盟であった。
信長は、戦国随一の名将であることは間違いないが、それ以前に天性の外交家であった。敵国武将に徹底的に媚をふり、自分が勝てるという確信がもてるときまで、絶対に戦さは起こさない。
逆にいえば家康との同盟などはまったく意に介さない性格なのだろうが、両家の同盟は信長の死までつづいた。それは何故か。家康が絶対に違約をしなかったからである。信玄との決戦となった三方ヶ原の合戦に信長軍が少数の派兵しかしないなど、さんざん煮え湯を飲まされようとも、家康は同盟を遵守した。
信長が敦賀の朝倉家を攻めたときも、家康は帯同し戦果をあげる。しかも信長の義弟である浅井長政の裏切りに合い、挟撃をされたときには、先陣にいた家康は望まずして秀吉とともにしんがりをつとめることとなる。
さらにはその後の朝倉・浅井軍連合軍との姉川の合戦においては、数千の兵力をもって朝倉軍の強兵を一手に引き受け、打ち破り、さらには側面から浅井軍を強襲して、合戦を勝利に導いている。
無形の信頼感が天下人につながる
その後家康の律儀ぶりは、広く戦国の世に知られるようになり、どの大名も家康のことだけは信用し、真に受けるようになったという。人をだまし裏切ることで出世を果たすことができる戦国時代においてである。これは貴重な財産であろう。
事実、秀吉死後、関ヶ原の合戦にいたるまでの政変のなかで、家康が力を持ちえたのは、もちろん武将としての技量が随一であったことも確かだ、「家康なら我が家をどうにかしてくれるだろう」という無形の信頼感であったといわれる。その信頼感に人は群れ、集まり、家康を天下人へと押し上げたのである。
辛酸を嘗めようとも、煮え湯を飲まされようとも、人を信じ、裏切らない。むずかしいことかもしれないが、才能の有無に関わらず自らの心がけでなしえる生き方に違いない。家康が築いた300年の平和国家は、家康自身の生き方から生まれたものなのである。