100万人が生活を営み、世界一の大都市であった江戸。そこは世界一ゴミのない都市だった。それから300年――、東京は世界一ゴミの多い都市になった。ダイオキシンの放出量も世界一。世界一清潔な都市といわれた江戸には、最先端のゴミ処理システムがあった。
江戸住民の究極のリサイクル
早朝、各家庭から生ゴミが出される。ゴミ袋を持って玄関を出るお父さんもいるだろう。収集車が来るまでにカラスがつついたり、悪臭や汁漏れがあったりと、暮らしのなかでの嫌われ者代表が生ゴミだ。自治体では、ゴミ袋の有料化などで生ゴミの軽減に努めてきたが、家庭からの排出量は増える一方。ところが、遡ること300年、江戸の街にはゴミなど見当たらなかったという。なぜか?
何でもかんでもリサイクルしていたからだ。ときは元禄を迎える直前の1650年ころ、江戸は都市としての体裁も整い、高度経済成長期に入る。ちょうど「初物を食べると75日長生きする」という初物ブームが到来し、江戸っ子は競って初物を食べた。近郊の農家は、1日でも早く作物を実らせようと、生ゴミを肥料に使うことを思いつく。江戸の家庭から出た生ゴミを地面に埋めて発酵させ、油紙をかぶせて保温するという方法で作物の発育が早くなった。
それ以後、近郊の農民は、野菜や薪をもって定期的に江戸を訪れ、帰りには肥料となる生ゴミを積んで持ち帰った。その肥料で育てた野菜を江戸住民が食べるという、食物のリサイクルが成立していた。
生ゴミだけではない。人々の糞尿もリサイクルされた。糞尿は中世から畑の肥料として使われていたが、江戸時代には、糞尿専門の回収業者があらわれ、有償で江戸の街から下肥として回収した。それが結局は野菜となって、江戸住民の口に戻ってくるのだから、これぞ人間を巻き込んだ、究極のリサイクルといえよう。
同じ時代のヨーロッパ、たとえばロンドンやパリでは、生ゴミも糞尿も道に捨てるのが当たり前の生活をしていた。コレラやペストが蔓延し、その対処法として道路が舗装されたのだ。舗装しなくても、当時江戸を訪れたスペイン軍人ドン・ロドリゴをして「江戸の街はまだ誰も歩いていないように清潔である」といわせた江戸は、世界一清潔な都市だったのだろう。
江戸住民はリサイクルの天才
江戸のリサイクルは、食べ物に関してだけではない。先にも述べたように、何でもかんでもリサイクルした。このリサイクルは慈善事業ではない。商売として成り立つからこそ、各種のリサイクル業者が生まれた。
たとえば「灰買い」という業者がいた。当時の燃料は薪なので、当然各家庭から灰が出る。それを「灰買い」が買い集め「灰問屋」に卸す。灰は、清酒の醸造、衣服の染物、紙すき、洗いものなどに使われていたので、酒造業者、紺屋、製紙職人などが「灰問屋」から灰を購入していた。この「灰問屋」は昭和10年ころまで続いた商売だという。
そのほかにも、街を巡回して紙くずを買い古紙問屋に卸す「紙くず買い」、蝋燭のしずくを買い安い蝋燭を作る「蝋燭の流れ買い」、壊れた傘を買い集め古傘問屋に卸す「傘の古骨買い」など、現代ならばゴミとなるものでも、専門の業者や問屋が存在し、再利用を生業としていた。
着物のリサイクルも忘れてはならない。江戸時代は、布はすべて手織りで、生産量にも限りがあったので、庶民はもちろんのこと、武士階級でも古着を着ていた。何度もリサイクルされ着物として使えなくなっても、雑巾や赤ん坊のおしめとして利用された。ちなみに古着商の数は、享保8(1723)年の記録では、組合に所属している商店だけで1182軒もあったという。江戸の住人にとって古着商は欠かすことのできないリサイクル業者だった。
これだけいろいろなものがリサイクルされれば、ゴミも出ないはずだ。複雑なデジタル家電が溢れる現代は、「直すよりも買ったほうが安い」という時代。江戸時代の生活に戻れといわれても無理な話だが、江戸のゴミ処理システムは、現代の環境問題解決のヒントになるかもしれない。