成功経営者インタビュー

経営者インタビュー 株式会社テンポスホールディングス 代表取締役社長 森下篤史氏

本コーナーで掲載する経営者インタビューは、Podcast「社長に聞く!in WizBiz」で配信中の経営者インタビューを編集しています。今回、ご紹介する経営者は、森下篤史氏(株式会社テンポスホールディングス 代表取締役社長)です。(2019年4月17日 2019年4月24日 配信)

今回は、飲食店の開業や経営を多方面からサポートする、飲食店プロデュースのリーディングカンパニー、株式会社テンポスホールディングスの森下篤史社長にお越しいただきました。小中学校の時は落ち着きがなく、夏休みに学校に呼び出されしまうほどのいたずらっ子、高校でも何をやっても中途半端だったと、ご自身で振り返られます。1983年に独立開業されてから、1997年にテンポスバスターズを設立し経営者となります。テンポス社は5年後に上場を果たします。そして今後も5社の上場を目指していく、という目標を掲げられています。70歳を過ぎてもなお、現場の店舗を回り、パート従業員の声を聴くことを大切にされている森下篤史社長。常に志は高く、飽くなき挑戦を続けられる熱い経営者のお話をぜひお聞きください!

新谷哲:今回の経営者インタビューは、株式会社テンポスホールディングスの森下篤史社長です。まずは経歴をご紹介します。静岡大学ご卒業後、東京電機(現・東芝テック株式会社)にご入社。その後、食器洗浄機メーカー協同精工を起業し経営者となります。1997年にテンポスバスターズを設立。5年後の2002年にはJASDAQに株式上場されます。現在は18のグループ会社を経営され、年商1000億円の企業を目指している経営者です。本日はよろしくお願いいたします。

森下篤史:よろしくお願いします。

新谷哲:最初のご質問です。ご出身は静岡県出身ということですが、小学校・中学校時代どのようにお過ごしになりましたか?

森下篤史:小学校・中学校時代は痩せていて、いたずら小僧で、落ち着きがなく人の言うことを聞かない子どもでした。親父は百姓で、おふくろは小学4年の時に亡くなります。小学6年の時に新しいおふくろがきました。

新谷哲:人の言うことを聞かないということは、ガキ大将だったのですか?

森下篤史:体小さくて痩せているもので、ガキ大将ではないです。でも勉強のできないやつを集めて、皆でどこか企画して遊びに行こう、と企画していました。

新谷哲:高校は静岡の高校ですか?

森下篤史:愛知県、新城市の高校へ行きました。

新谷哲:愛知県の高校を選ばれた理由はございますか?

森下篤史:寒いのが嫌だったので、南へ行こうと思い選びました。

新谷哲:高校時代はどのようにお過ごしになりましたか?

森下篤史:中学時代から惚れっぽいたちで「すぐ結婚したい」と思っていました。高校でもすぐに、「好きだ、結婚したい」と思うのですが、女の子に声をかけることができずに卒業しました(笑)。大学を卒業して結婚するのですが、これは大学を卒業するときに、女の子の方から「どうする?」と聞かれたので「結婚します」と答えて結婚しました。中学時代は勉強ができたのですが、高校は勉強できるやつが集まるので、成績が中以下のグループになって、精神的に1年半ぐらい挫折します。高校3年生ぐらいから勉強が出来るグループに入るようになりました。スポーツについては、柔道部に入っては4カ月で辞め、テニス部に入っても大した腕にならずと、中途半端でした。

新谷哲:高校卒業後、国立の静岡大学を選ばれていますが、選ばれた理由はございますか?

森下篤史:親と「学校の先生になるのだったら、大学へ行かせる」という約束をして、静岡大学の教育学部へ行かせてもらいました。学校の先生になりたかったわけではなく「田舎だから大学に行くには先生になるぐらいしかない」という理由からの約束です。

新谷哲:学校の先生にならなかったようですが、なぜならなかったのですか?

森下篤史:いたずら小僧ではあるのですが、小学校から大学までは真面目に通い、授業をさぼることはありませんでした。ところが大学へ行ってフリーになった途端に、遊びほうけて、授業に出ない生活を送りました。そうすると、大事な時間と大事じゃない時間の区別がつかなくなります。10時から面接がある日、目を覚ましたのが11時半でした。教員試験には受かっていたのですが、面接を蹴ったので教員になれませんでした。

新谷哲:大学卒業後、現在の東芝テックに就職されますが、選ばれた理由はございますか?

森下篤史:教育学部だったので、教員以外の就職先を選ぶ窓口がありませんでした。アルバイトで土木作業員をやっていたので、その仕事に就こうとします。そしたら女房が「それ以外に就職しろ」と言うので、新聞の募集記事を読んで、たまたま東芝テックに就職しました。新聞募集からなので、新卒ではなく中途扱いです。だから新卒研修を受けていない半端ものでした。

新谷哲:東芝テックでお勤めになっていた時の思い出はございますか?

森下篤史:研究熱心だったので、セールストークの研究、自社の商品知識、競争他社の商品知識などの勉強を、他の社員に負けないくらいしました。でも対人関係の問題で、お客さんに全く相手にしてもらえませんでした。例えば税金の償却について中途半端に知っている商店主が反論すると、討論をしてねじ伏せました。するとお客さんから「なるほど、お前の言うことが正しいということは分かったが、気分悪いから帰ってくれ」と言われるので、営業しても売れませんでした。この時は「人間は、物を買うとき損得合理的な計算で買う」と思っていたのです。半年間で1台も売れなかったので辞表を出します。そのとき上司に「俺さぼりながらやっていて、ずっと嫌だったから辞めるけど、1カ月間だけは会社でセールスやらせてくれ、自分を見極めてから辞めたい」と話します。そこである機械の発売を任されて、翌月から月に1台ずつ売れるようになりました。上司からは「売れるようになったのだから、仕事を続けたらどうだ?」となり、クビが繋がりました。それが1年目だったので、ろくじゃない社員です。2年目になったら、130万円の機械を販売しました。1年目に売っていた機械は27万円だったので、5倍の値段です。これも月に1台ずつ売れたので、売上が5倍になりました。売っている数は変わらないので、売れているとは思わないのですが、売上成績が30人中の7番目になり、部下が2人付きました。子どもの頃からお調子者だったこともあって、部下に良いところ見せようとして1人では訪問しにくい先でも「あそこを攻略するようでなきゃ男にならない」と見栄を張って訪問件数を増やした結果、成績が全国10位になりました。そうしたら部下が増えて6人になり、同じように頑張った結果、全国1位になります。今度は、社員を集めて勉強会を開くことにあり、勉強会ではチェーンストア理論の勉強をさせます。この勉強会のおかげで、私はチェーンストア理論をマスターし、また全国1位になりました。次は別の課も見るようになり、翌年また全国1位を取ることになります。調子に乗ってきて頑張ってきたから、力がついたという感じですね。

新谷哲:では、成績を上げて出世されたのですか?

森下篤史:出世はしました。新聞募集のセールスマンは、臨時雇用という扱いだったのですが、臨時雇用の評価制度がないのです。27歳ぐらいの時に全国1位なって本社へ行ったのですが、評価制度がない。全国1位の成績を上げたので、課長代理としていくことになったのですが、他の課長代理は40歳ぐらいの人達です。当時の経営者は、立て直しのために東芝から来た人で、とんとん拍子に出世をしたお調子者の私を使って改革をするのです。いろんな管理部門のルールを無視したり、好き勝手やりながら実績を上げたのですが、あちこちからクレームがきました(笑)。私がした仕事は、2勝8敗ぐらいの成績でした。「改革中だから8敗しても構わない」という方針だったのですが、改革をしていた経営者が亡くなりました。すると私のことを面白くないと思っている人達が声を上げます。それは保守派の、2勝よりも8敗が気になる人たちでした。ルールも無視していたので吊し上げられて、1年で本社をクビになり、営業所に行きます。そこでも色々やって、クビになりました。

新谷哲:今の森下篤史社長の姿とすごく重なるので、大変面白いです(笑)。その後、起業して経営者になるのですよね?

森下篤史:親父は百姓、おふくろが公務員だから、ベンチャー精神のかけらもないです。東芝テックを解雇になった後は両親が怖くて、取引先にあちこち電話かけ就職先を探します。社員数7人の会社が「今までの給料で雇うよ」言ってくださり、その会社へ就職します。10カ月で会社の売上が4倍、利益が10倍になり、社員も7人から24人になりました。3000万円以上あった不良債権も解消して、会社としては嬉しい限りだったのですが、経営者が「東芝テックの全国1位の営業マンが、7人の会社へ来るには何か訳があるはずだ!」と疑心暗鬼になりました。私は「やっと就職できた」と嬉しくてしょうがないのに、経営者は「あいつは起業して辞めるつもりだ!」と疑りの眼で見るのです。それで入社から10カ月目に突然、でかいガラスの灰皿で殴りかかってきました。経営者は「うちの会社をどうするつもりだ!」と言うのですが、私は何が何だかさっぱり分からなかったです。でも経営者の奥さんは、何かやることを感知していたので、経営者を羽交い絞めにして「森下さん逃げて!」ということになり、その10カ月で会社はクビなりました。そのときに、経営者に反抗的な社員2人を押し付けられたので、3人で東京へ出てきて株式会社協同を起業して経営者になりました。

新谷哲:なるほど。じゃあ2回解雇されたということですね。

森下篤史:本当に、見る目がなかったです(笑)。

新谷哲:この時に起業された株式会社協同は、現在も経営しているのですか?

森下篤史:経営しています。協同は、給食センターで使うような、コンベアー式の食器洗浄機を販売する事業を経営する会社です。

新谷哲:プロフィールでは、その他にも色々な事業に手を出しては失敗を重ねる、とお書きいただきました。これはよく失敗している、ということでしょうか?

森下篤史:そうです。いまだに8つ失敗して2つ成功する確率です。

新谷哲:1997年に設立されたテンポスバスターズのお話をお聞きしたいのですが、こちらを設立した理由はございますか?

森下篤史:食器洗浄機屋の経営をしている時にテレビで、捨ててある電化製品を1万円で売る経営者が出演していました。その社長がベンツに乗っていたのです。それを見て「こっちは一生懸命、機械作って怒られてばっかりなのに、あれは拾ってきたものを売って何でベンツに乗るんだ。今の事業を経営することは話にならん。これまで社員に苦労をかけてきたから、楽をさせなければならない。だからリサイクル屋の経営をしよう」と思い、1997年にテンポスバスターズの経営をスタートしました。

新谷哲:その後、たった5年で上場までいく訳ですが、上場は目指して経営をしていたのですか?

森下篤史:上場を考えて経営していましたが、スタート時点で躓きました。500坪の倉庫に厨房関係の物が集まってこないのです。集めるためにチラシを配ると、なぜかギターが来たりします。新聞とかテレビなどのメディアにも電話をかけますが、取材もこない。3カ月後に、朝日新聞の浦和の支局の人が取材に来ますが、倉庫にはギターしかないのです。そこで10トントラックを2台手分けして、普通のリサイクル屋の隅っこにある製氷機などを借りてきて並べました。それでも倉庫がスカスカだったので、奥に入れないように入口に山盛りにするなどの工夫をします。なんとか物が少ないことを誤魔化して、埼玉版の新聞に5行ぐらいの記事がでます。その記事では2件ぐらい電話があっただけでした。しかしそれまで毎日、メディアに電話をしていたので、メディア関係者が記事を見たときに「テンポスという名前だけは知っていたが、朝日新聞に出たんだからこれは本物だ」と思って日経新聞が取材に来ました。日経新聞の全国版に記事が出たことで、4カ月目には500坪の倉庫が全部埋まります。そこから調子が出て、5年半ぐらいで上場できたので、戦略は何もないですね(笑)。

新谷哲:ここからは違う質問をいたします。好きなこと・好きなものをお聞きして「ハーゲンダッツのココナッツと百姓」とお答えいただきました。ちょっとかわいらしい面があるのですね。

森下篤史:いろいろ食べた結果、ハーゲンダッツはココナッツが良いとなりました。

新谷哲:そうですか。百姓は今もやっていらっしゃるのですか?

森下篤史:百姓は趣味じゃないです。遠州中央農協の正組合員です(笑)。

新谷哲:では、仕事が好きと一緒ですね(笑)。座右の銘をお聞きしましたら「何とかなる」。これを選ばれた理由は何かございますか?

森下篤史:これは理由と言いますか、昔から「何とかなる」と思ってやってきたかたからです。ただ私は、すぐ折れてすぐへこたれてしまうのです。しなやかでも強固でもないのですが、第三の強みを持っています。すぐ折れてしまうけど、すぐ芽が出てくるので、それで「何とかなる」と思っています。

新谷哲:大変深いお言葉でございます。次が最後の質問となります。全国の社長・経営者、これから起業する方に向けて、経営者として成功する秘訣・方法をお教え下さい。

森下篤史:経営者として成功する秘訣が分かれば、とっくに成功しています(笑)。しかし「続けないと失敗する」ことは、分かっています。続けない経営者は、企画力があっても上手くいきません。続けるだけで経営者として成功することはありませんが、成功しようと思って続けている経営者の中に、成功する経営者が出てきます。だから、何が時流かを見極めて、ガンガン攻めて経営をすることが良いと思います。

新谷哲:大変勉強になるお言葉をありがとうございます。森下篤史社長、本日はありがとうございました。

編集後記

森下篤史社長は、大変面白い経営者でした。小学校の時から企画力という素質があったということで、経営者の才能があったと感じます。解雇を2回されても元気で頑張って、上場企業の経営者になられています。解雇になったりしてもビビらず、何とかなると経営者になった前向きな部分は、本当に素晴らしいと思いました。

森下篤史氏
株式会社テンポスホールディングス 代表取締役社長

静岡県生まれ。静岡大学教育学部卒業後、大手レジスター会社に就職し、トップセールスとなる。1983年、共同精工(現キョウドウ)を設立。その後、1997年、中古厨房機器販売の「テンポスバスターズ」を設立。設立5年後の2002年12月にジャスダック市場に株式上場。

※本インタビューへの出演をご希望の方はこちらよりご応募ください。

本インタビューは、Podcast「社長に聞く!in WizBiz」で配信中の経営者インタビューを編集したものです。文中に登場する社名、肩書、数字情報などは、原則、収録当時のものですので、予めご了承ください。
今回は、森下篤史氏(株式会社テンポスホールディングス 代表取締役社長)の経営者インタビューを取り上げました。

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