龍馬の死より150余年! はたして暗殺の黒幕は誰か?

慶応3(1867)年、11月15日、京都・近江屋で坂本龍馬が暗殺(即死)された。龍馬と密談中だった土佐以来の盟友である中岡慎太郎も致命傷を負い、2日後に絶命。この2人を暗殺した犯人はいまだに謎であり、龍馬暗殺は幕末最大のミステリーといわれている。

龍馬暗殺の犯人と称する人物とは

その日龍馬は、中岡慎太郎とともに京都の醤油商・近江屋の母屋2階にて歓談中であったという。午後9時過ぎ、近江屋を訪れてきた何者かが龍馬に面会を要求。取り次ぎに出た下僕の藤吉に龍馬の在室を確認した彼らは、藤吉を斬殺したあと、龍馬のいる2階に向かう。

暗殺者たちは座敷にいきなり乱入し、龍馬、中岡に斬りかかった。龍馬は額を斬られ、ほぼ即死。中岡は数十箇所に傷を受け、事件直後に駆けつけた土佐藩同志に襲撃の状況を語ると、2日後に絶命した。とまぁ以上が、映画、テレビ、はたまた舞台や小説にて演じ、語られてきた龍馬暗殺のシーンだ。

さて問題は、犯人は誰か、ということである。これもさまざまに論じられているが、最近NHKで放映された歴史番組では、犯人は幕府見回り組とし、その黒幕には薩摩藩がいるとした。当時、京都には史上有名な新撰組のほかに、もうひとつ幕府に属する警察組織として京都見回り組があった。彼らが龍馬暗殺の首謀者とされたのだ。

事実、明治2年には旧幕府軍のなかから龍馬暗殺の犯人と称する人物が現われている。元見回り組隊士・今井信郎である。今井は明治政府の取り調べに対して、隊長・佐々木唯三郎はじめ、見回り組7人で襲撃したと供述。さらには明治44年、同じ元見回り組隊士・渡辺篤も暗殺を告白し、遺書のなかに龍馬を斬りつけた様子をくわしく書き残した。そのほかにも諸説が入り乱れているが、実行犯はこの京都見回り組の一派であることはほぼ間違いないだろう。

薩摩藩の黒幕はありえるか!?

ではその黒幕は誰かというところがクローズアップされてくる。件のNHK歴史番組では、2説あげられていた。ひとつは薩摩藩、もうひとつには会津藩が黒幕というものだ。結局視聴者の投票によって薩摩藩黒幕説が有力ということで落ち着いたのだが、これはいかがなものか。

たしかに幕府の武力討伐を主張していた薩摩藩は、15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を申し出たその日、朝廷から倒幕の密勅を得た。龍馬ははじめこそ、薩摩、長州と手を結び、倒幕運動を進めてきた。が、大政奉還のアイデアは龍馬が出したものであり、最後の最後には幕府は倒すものの徳川家は存続させる立場に転じた。振り上げた拳を下ろすことなく、相手が消えてしまった薩摩藩にとって、龍馬は政敵となった。

しかしここで疑問が残る。龍馬とともに暗殺された中岡慎太郎は、土佐脱藩後薩摩藩とともに働き、武力による倒幕を主張していた盟友である。その中岡を一緒に葬りさることがあろうか。

さらには薩長といえども、大政奉還時には京都にほんの一握りの藩士を置いていただけであった。一方幕府には、慶喜が居住していた大阪に薩長の数倍にあたる洋式軍隊、諸藩藩士がいた。その兵力差を見ても、薩長は勝ち目がないと思われていたのである。そのときに政敵となったとはいえ龍馬の暗殺を考えるだろうか。はなはだ疑問である。

真実は闇の中にあるのみだが

さて一方で会津藩である。じつは2002年にある密書が京都市内で見つかった。それには実行犯のひとり佐々木唯三郎の兄で会津藩重臣・手代木直右衛門が龍馬暗殺直後に、彦根藩重臣・石黒伝右衛門と会談しようとしたことが書かれていたという。

内容は、「ごく内密に相談したい事件があり、(石黒の)旅宿を訪ねたが出仕中で留守だった。ご苦労をかけて恐縮だが、京都・祇園で待っているので来てほしい」というもの。京都でこの頃、大きな事件といえば、龍馬暗殺ぐらい。相談の事件とは龍馬暗殺の件とみてよいと思われている。

大政奉還直後のこの時期、慶喜を新政府の要職につける画策を、盛んに会津藩などの徳川親藩が水面下にしていて、龍馬を要注意人物として普段からその行動をマークしていたという。その思いがあまって、暗殺となったのではないか。あたかも京都見回り組は、会津藩の肝煎りで作られ、その動向は会津藩が掌握していた。となれば、黒幕は・・・。もちろんすべては歴史の闇の中のままだ。

「龍馬がゆく」を書き記した司馬遼太郎の命日は菜の花忌として忍ばれているが、龍馬の命日11月15日は高知で生誕祭が催されている。慶応3年11月15日。この日は、彼の33回目の誕生日でもあった。

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