日本を土俵際から救った素人感覚

とかくいままでの常識にとらわれ、新しい意見・発想を取り入れようとしない姿勢を“頭が固い”“頑迷”などと呼ばれる。しかし“頑迷さ”ゆえに、日本の危急存亡に関わる大事となった戦いがあった。日露戦争時の旅順攻略がそれである。

いたずらに死傷者を増やす旅順攻撃

映画でも有名となった203高地。いわずと知れた日露戦争において、乃木将軍率いる第三軍が旅順要塞戦の勝敗を決した丘をさす。当時旅順港内に潜むロシア艦隊は、日本にとって驚異であった。大航海をしてくるバルチック艦隊と合流されてしまえば、単純にいって戦力は2倍。日本の連合艦隊は敗れ、満州に軍を進める陸軍は孤立してしまう。旅順港内に錨を下ろすロシア艦隊を陸からの砲撃によって全滅させることは、日本の戦略上不可欠な作戦であったのだ。

当初から海軍は、旅順港を見下ろせ、砲撃の目標を的確に伝えられる203高地の攻略を陸軍に進言していたという。ところがセクショナリズムに凝り固まった第三軍の伊地知参謀長は、その進言を拒否。正面きっての総攻撃を敢行するが、約5万人の攻撃軍のうち3割が死傷するという大惨敗を期す。以後数カ月にわたり攻撃を続行するが、コンクリートで構築された要塞と、500門になんなんとするロシア軍の砲撃を前に、ただいたずらに死傷者を増やすだけであった。

そこで日本陸軍の参謀次長であった児玉源太郎である。乃木の親友でもあった児玉は、最前線を離れ旅順へと向かう。一時的に乃木の指揮権(統帥権)を奪い、自ら旅順攻撃の指揮をとるためにだ。もちろんいくら参謀次長とはいえ、一軍の指揮権を奪うことなどは通常では考えられない。そこまで状況は追い込まれていたのだ。

乃木は一時的に児玉に指揮権を預けることに同意した。すぐさま児玉は乃木司令部の幕僚たちを集め、「203高地にとりついた味方を援護するために、28センチ砲を前線に移動。かつ15分ごとに1発、一昼夜連続射撃して、敵の逆襲を阻止しろ」と命じた。

「できるわけない」との専門家の思い込み

28センチ砲は、平時には戦艦に取り付けられている。しかし旅順攻略では陸へ上げ、セメントでつくられた砲座から射撃が繰り返されていた。児玉の命令は、その砲座を動かすことからはじめなければならない。砲科出身の伊地知参謀長以下、乃木司令部の幕僚たちは児玉に反論する。

「28センチ砲の移動は不可能。たとえ移動できたとしても敵からの砲撃から守るために、移動後砲座のセメントが乾くまで射撃は不可能。少なくとも1カ月はかかる」
「いまは戦争だ。そんな悠長なことは平時に考えろ」

幕僚は言葉を重ねる。「28センチ砲を速射すれば、味方を撃つ公算も大です。天皇陛下の兵士を、陛下の砲をもって撃つことはできません」。そこで児玉はついに幕僚を怒鳴りつけた。その眼には涙があふれていたという。「その大切な陛下の兵士を、無為無能の作戦によっていたずらに死なせてきたのは誰か。自分は、これ以上、兵の命を無益に失わせぬよう作戦を変更しろといっているのだ」と。

言葉を失った幕僚たちは、児玉が命じるままに行動を開始する。28センチ砲18門を一気に移動し、3日後には砲座も完成させ、射撃を開始したのである。この児玉の作戦により、わずか半日で203高地を占領。そこを観測点として、旅順港内のロシア艦隊に砲撃を開始し壊滅的打撃を与えた。その後数万の死傷者を出した旅順港要塞は、あっけなく陥落した。

後日、児玉の副官が尋ねたという。「なぜ28センチ砲を迅速に動かすことができ、かつ敵からの反撃がないと確信していたのか」と。児玉は答える。「何十人、何百人もの人間が力を合わせれば、動かぬ砲などない。また敵が撃つ間もなく砲撃すれば、反撃などはありえないと思った。要は砲科出身の伊地知参謀長は、専門家すぎた。はなから『できるわけがない』との思い込みがあった。自分は素人だからな」

専門家ゆえの頑迷さ、こだわり。その頭が日本という国家を土俵際まで追いつめた。不可能だと決めつける前に、どうすれば可能となるかとの発想をもつことこそが、肝要なのである。歴史上奇襲といわれた戦いは、「ありえない」「できるわけない」という敵の油断を攻め抜いたものであることを知らなければならない。

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