2016年のNHK大河ドラマは真田幸村でしたが、2017年は井伊直虎が描かれることになりました。真田家も井伊家もそれぞれ武勇を謳われた戦国随一の精鋭部隊。
そしてその精鋭の象徴としての赤備えは余りにも有名です。
しかしこの赤備え。
甲斐の武田氏が起源と言われていますが、なぜ戦国の世にあって勇猛果敢な精鋭部隊の象徴とされることになったのでしょうか。
■赤備えの始まり
赤備えを最初に取り入れたとされるのは、武田二十四将にも数えられている飯富虎昌とされています。
甲山の猛虎とも恐れられた虎昌は、敵・味方から常にその活躍が目立つように配下の将士を朱色の甲冑で固めたとされていますが、当時朱色の染料は、辰砂と呼ばれる硫化水銀からなる鉱物が用いられていたことから、極めて高価なものでした。
そのため手柄を挙げ続けた、武勇に優れる猛将にしかできない編成であったと言えるでしょう。
やがて武田が滅亡すると、信濃と甲斐は周辺有力大名の草刈り場となり、甲斐は徳川家康がその掌中に納めます。この際、武田の遺臣を吸収したのが徳川四天王と呼ばれる井伊直政でした。直政は、吸収した武田の遺臣を基に「井伊の赤鬼」と呼ばれた赤備えを編成し、徳川最強の精鋭部隊を率いていきます。
また後世、大坂の陣に際し豊臣方の最後の猛将として大坂城に入城した真田幸村が率いた赤備えも有名ですが、幸村もまた、武田家の遺臣として最後の意地を見せ、武田伝統の赤備えで天下人にひと泡もふた泡も吹かせることになりました。
■なぜ赤備えは強いのか
精強な部隊しか赤備えを揃えることができなかった事実がある一方で、逆説的になぜ赤備えの精鋭部隊は強く在り続けられたのでしょうか。
戦国の世にあっては、大名といえども直率の動員部隊は必ずしも大きなものではなく、戦の際に動員されるのは支配下にある国人の兵員や、半農半兵の領民などでした。
織田信長が兵農分離の政策を導入するまで、指揮官から兵員に至るまで戦闘を自らのアイデンティティとして強く意識する集団を運用する考えは希薄であったと言えます。
そのようなことが常識の戦国の世にあって、配下の将士には甲冑から旗指物まですべて朱色で統一をさせ、敵味方の目からもその存在が明らかな赤備えは、その組織にどのような影響を与えたのでしょうか。
恐らくその組織に選ばれることは極めて栄誉なことであったことは想像に固くありません。
精強を謳われた武田氏の中でも、特に精鋭中の精鋭に選ばれ、朱色の甲冑を与えられた将士のアイデンティティは、そのプライドにかけて心身ともに強く在り続けたことが容易に想像できます。
組織の存在を定義し、組織のアイデンティティを明確にし、与えられた役割を理解させることは、精強な部隊を組織し維持する上で極めて効果的であったと言えるでしょう。
■制服が持つ力
時代は下り、日本とロシアが満州と朝鮮半島の利権を巡り激突した日露戦争の際のエピソードです。
ロシアは世界最強とも言われたバルティック艦隊を日本海に回航し、日本海軍を一気に殲滅する作戦を発動しました。
対する日本海軍も万全の体制で迎え撃つ体制を取ったため、ここに日本海海戦が勃発します。
対馬沖で両海軍が激突することが確実な情勢になったその日。
ロシア海軍の指揮官は間もなく始まる戦闘に備え、各自に支給している制服の中でもっとも使い古したものを着用することを指示しました。
戦闘の中で汚れ、あるものは命を落とすことがあるため、ある意味で合理的な指示とも言えるでしょう。
一方で日本海軍はどうだったのでしょうか。
戦闘が始まる数時間前、末端の兵士に至るまで入浴し身を清めることが指示され、そして一人ひとりに真新しい制服が支給され、言わば「死装束」に着替えるよう指示が出されました。
これは一義的には、ケガを負った際の衛生上の観点が大きかったようですが、間もなく始まる戦闘に備え、真新しい制服に袖を通した将士の決意は想像に難くありません。
そして始まった海戦では、日本が一方的にロシアを破り日露戦争の勝利を決定づけることになりました。
赤備えの時代から、「制服」の持つアイデンティティの効果は絶大です。
自らの役割を強烈に意識する装束に仲間と共に身を包んだ時、その結束力は確固たるものになるでしょう。
100回説明するより、一つのアイデンティティ。
組織力の強さは、実はこのようなシンプルな発想から生まれるのかもしれません。