1905年9月5日、日露戦争の集結を告げるポーツマス条約調印当日に、講和条約に反対する国民大会が、東京・日比谷公園で開催された。時の明治政府は治安警察法により集会の開催を禁止し、警官隊を導入する。
日露戦争は無賠償の勝利
日比谷公園に集まった国民は警官隊と衝突し,閉会後,政府の新聞社・警察署・市街電車を襲撃し,派出所・交番の7割を焼き打ちにした。暴動は翌6日夜まで つづいたが、政府は軍隊を出動させ,戒厳令を施行。約2000名を検挙し、多数の新聞を発行禁止として言論を取り締まった。世にいう日比谷焼き打ち事件で ある。
さかのぼること3カ月前の5月27日、東郷平八郎率いる連合艦隊はロシアのバルチック艦隊を完膚なきまでに撃破した。3月に、日露戦争最後の会戦となった 奉天攻略戦にかろうじて勝利した日本にとって、連合艦隊の大勝利は、講和交渉を開始するには絶好の時機であった。
事実、6月1日にはアメリカ大統領、セオドア・ルーズベルトに講和斡旋の要望を伝え、ルーズベルトも9日には日露両国に講和を正式に勧告する。そしてその 勧告を受け、日露両国の講和会議はアメリカ・ポーツマスで8月10日からはじまった。日本の全権大使は外務大臣・小村寿太郎、ロシアの全権大使は、ロシア 皇帝の信厚いウィッテであった。
さて、問題はここからである。交渉では当初ロシアは強硬姿勢を貫き、「たかだか小さな戦闘において敗れただけだ」とし、交渉は暗礁に乗り上げた。しかし日本側が何とか譲歩し、アメリカがロシアを説得するという形で事態を収拾し締結した。
日本が譲歩した理由、それは戦力の消耗とともに経済的な破綻が大きい。ところがこの条約では、日本が何よりも欲していた、国家予算の約4倍にあたる20億 円の戦費を相殺する戦争賠償金を取得することは、ロシアの経済状況によりかなわなかった(南樺太の譲渡、満州南部の鉄道および領地の租借権などがおもな項 目となる)。
「耐えた国民のほうがむしろ奇蹟」
そこで日比谷焼き打ち事件である。戦時中の増税による耐乏生活を強いられてきた国民は、賠償金こそが希望の光。それがかなわなくなったと知るや、新聞各紙 はもとより有識者まで一斉にポーツマス条約を非難し、国民は行動を起こした。暴動は、横浜・大阪・名古屋など、全国規模に広がっていったのである。
かの司馬遼太郎が、畢生の大著『坂の上の雲』のなかで、「戦争準備の大予算そのものが奇蹟であるが、それに耐えた国民のほうがむしろ奇蹟であった」と記しているが、かくも重税に耐え、多くの肉親が血を流して手にした勝利が無賠償だったことに国民がキレたのだ。
現在の日本は、長く閉塞感が漂った不況のトンネルを抜け、経済全体にようやく明るい兆しが感じられるようになってきた。ただその先にあるものが「格差社 会」という言葉に代表される二極化された構造改革であったとき、平成の国民は何を思うか。その実像が浮き彫りになりつつあるいま、“小泉後”に今度は日比 谷ではなく東京・永田町で大きな変化があるかもしれない。