経営が破綻したJALを再建した稲盛和夫は、どのような改革を行ったのか。
■社員を叱るのを継続する。
JALを稲盛和夫が再建している間、稲盛和夫に幹部社員などほとんどの社員がずっと叱られていました。それはJALが、指示を一握りの幹部が出し、それを従業員が実行するというトップダウンの経営方式を継続していたためです。
稲盛和夫が抱いたイメージは、非常に官僚的で硬直化した人が集まった組織だということ。
2次的な経営破綻を防止するためにも、一握りの幹部にだけ頼るような経営方式では駄目であると感じた稲盛和夫は、経営層の心をまず動かすことからスタートしました。
稲盛流の考え方である「判断する場合には何が人として正しいかを基準にする」ことを、社員に聞かせ続け、叱り続けます。
社員たちは、毎日叱っていた稲盛和夫に対して、初めは浮かない顔をしていました。
これまでJALを動かしてきたのは自分たちだという自信があり、叱られることはそれを否定されたように感じたからです。
しかし粘り強く聞かせ続け、叱り続けた結果、心を動かしてくれる人が現れ始めます。その人数はだんだん多くなっていき、ついには経営層だけでなくJAL全社へと改革の波は広がりました。
■フィロソフィをJALに作らせる。
稲盛和夫は、LALの再建に際して、フィロソフィをJALに作らせるようにしました。
基本的に、フィロソフィというのは、京セラなどを稲盛和夫が創業する際に作ったものです。
稲盛和夫は、経営者というのは孤独であると考えていました。
自信が全くない場合でも、自分で考えて、自分で決める必要がある孤独に、耐えることが必要だと。
しかし、この際、稲盛和夫は、「分身がいて経営に関して自分のように心配してくれるといいのに」と考えたそうです。
そして、自分の判断基準や考え方を稲盛和夫がまとめたものが、京セラなどのフィロソフィになっています。
このフィロソフィが、JALの再建の場合でも必要であると稲盛和夫は考えました。
そこで当時の社長であった大西賢に、京セラのフィロソフィを渡します。これを参考にしながら約2カ月間、数十人の手によって、JAL独自のフィロソフィが作られました。
しかし、ただ社内向けに公開するだけではフィロソフィは浸透しません。そこでJALでは上司から部下へ手渡しをする方法を取ります。メールや書類で一斉配布するよりも、身近な上司から手渡された方が大切なものになると考えたからです。
さらに、朝礼や終礼などの時間に、みんなで読む機会を設けます。
こうした活動を続けることで、JALは再建の柱となるフィロソフィを定着させました。
稲盛和夫はこのような地道な活動を続けることで、JALを再建させたのです。