歌舞伎の世界での責任の取り方~「桜姫東文章」の公演にて

 失敗をしないに越したことはありませんが、どのような仕事にも失敗はつきものと言えます。歌舞伎の世界では、スタッフが失敗をしても、割と穏便に事を運ぶことがあるようです。

最近何かと話題の海老蔵の父が出演

歌舞伎の世界では、役者がセリフを間違ったり、出番を間違ったりした場合、自腹を切って共演者に蕎麦を振る舞う習わしがあります。セリフを間違えることを「セリフをとちる」ということから、この蕎麦を「とちり蕎麦」といいます。

このとちり蕎麦の習わしは、役者だけでなく、大道具、小道具でも同じです。特に大道具の場合、舞台転換に関わりますので、失敗をしでかしたなら、セリフを間違えたどころの問題で済まないことになります。

これは市川團十郎(現)、つまり10年7月に東京港区にあるザ・プリンス パークタワーで小林麻央さんと挙式をあげた市川海老蔵の父親ですが、この父親が海老蔵を名乗っていた頃の話です。

場所は現在建て替え工事中の東銀座・歌舞伎座。演目は四代目鶴屋南北作の「桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)」。市川海老蔵が高僧清玄坊役、白菊丸の生まれ変わりの桜姫役は坂東玉三郎でした。

この芝居にはプロローグがあります。清玄が白菊丸と駆け落ちをし、海中に身を投じるのですが、清玄は怖じ気づいて海に飛び込めず命を長らえ、白菊丸だけ亡くなってしまうのです。大道具の大失敗があったのは、この後に続く、第一場の「新清水の場」でした。心中から17年後という設定で、桜姫が白菊丸の生まれ変わりであることを清玄が知る場面です。

正しい舞台転換の段取りは以下の通りでした。縦じまの常式幕が開くと、舞台は全面をあさぎ幕で覆われています。あさぎ色は、鮮やかな水色です。一の柝(き)が入ると、紋付き姿の二人が三味線を携えて現われ、舞台の中央で大薩摩(おおざつま)をひとくだり。一の柝とは、舞台進行の合図で、劇場に拍子木の音が響きわたります。

3分か4分くらいで大薩摩が終わり、袖に引っ込むと二の柝が入ります。これをきっかけに、大道具があさぎ幕を一気に振り落とします。あさぎ幕の向こうから、朱色の御殿が現われ、中央最上段に根付きで桜姫がおり、その周りには付き人や家臣が控えているのです。この芝居の見せ場のひとつです。なお、根付きとは、幕が開いたとき舞台にいることです。

大道具は一応株式会社なのですが

あさぎ幕は巨大な布地ですから、ひとりやふたりで運ぶことができるような代物ではありません。あさぎ幕の裏には、大道具のスタッフが総勢10名ほ ど控えていて、二の柝の合図を待ちかまえています。二の柝が入ったなら、上手(かみて:客席から見て右側)、下手(しもて)のそれぞれの端にいる責任者が 同時にひもを引っぱり、一気にあさぎ幕を振り落とし、上手、下手にあさぎ幕を引き去ります。

その日は、上手の責任者は何を勘違いしたのか、一の柝であさぎ幕を振り落としてしまったのです。

まず驚いたのは大道具。ジーンズにシャツといった仕事着ですから、姿を隠そうと大慌て。次に慌てたのが役者の付き人。化粧直しの道具や痰ツボなどが入った手かごをもって、役者の横に立っていたのですから、隠れる場所を探すため右往左往。

次に大変なのは役者たち。大薩摩が終わるまでの間、ロウ人形のように不動を強いられることになりました。

舞台で起こった事件を知り、裏では全スタッフが大騒ぎを始めました。大道具も株式会社ですので役員がいましたが、大道具出身で演劇の世界にどっぷりとつかっている人でしたので、「とちり蕎麦だ」と騒ぐだけ。

芝居が終わって楽屋に引き返した役者たちは「さらし者にされた」と怒り、役員たちはひたすら謝罪。しかし、ミスを犯した張本人は、特に責任を追及されるわけでもなく涼しい顔。懲戒処分があったわけでもなく、何もなかったかのようにすぐに仕事の流れは復元しました。

舞台演劇は失敗がつきものなので、心のどこかで事件が起こることを楽しんでいる部分があるかのようでした。ところが、アメリカへ歌舞伎公演に出か けたことがあるスタッフが、「同じような失敗をした現地スタッフがいたが、即日解雇だった」といっていました。それもちょっと厳しすぎるとは思いますが。

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