経営者の訓話・名言の代表的な人物といえば、松下幸之助氏でしょう。インターネットで検索してもさまざまな言葉が溢れています。その中でも「考え、実行し、失敗したら工夫する」という要素は特に強調されているように思います。
これは成功者に共通することで、世界で並ぶもののない強大で緻密な組織を維持するアメリカ海軍戦闘機の歴史も「考え、実行し、失敗したら工夫する」の繰り返しでした。
アメリカ海軍戦闘機開発の歴史
松下幸之助が32歳で設立した松下電器具製作所が最初に世に出した、期待のソケットはまったく売れませんでしたが、欠点を考察し、工夫を重ね、「アタッチメントプラグ」「砲弾型自転車ランプ」「ナショナルランプ」などの大ヒット商品を連発していきます。
こんなものがあれば最高だな、というアイデアをとことん追求し、失敗したらやり直す。これを松下幸之助はこんな言葉にしています。「とにかく、考えてみることである。工夫してみることである。そして、やってみることである。失敗すればやり直せばいい」
一瞬、スケールが違うのではと思い勝ちですが、世界でも指折りの大組織、アメリカ海軍における戦闘機開発も松下幸之助の言葉を地で行くような歴史です。映画『トップガン』とそこで活躍する「グラマンF-14トムキャット」などの成功作の陰に数多くの失敗作や珍妙な機体が存在します。
第2次世界大戦後、あっさりと世界最強を手にしたように思えますが、そうでもありません。航空母艦(空母)での運用という制限されたなかで、さまざまなアイデアが出され、失敗し、工夫され、現在に至っています。アメリカという大きな国家が総力をあげても失敗、工夫しなくてはなかなかうまくいかないのです。
第2次世界大戦後のアメリカ海軍戦闘機の歴史は、レシプロ(プロペラ機)からジェット機への本格的な移行から始まります。大戦中に最初に作られた「ライアンFRファイアボール」という飛行機は、レシプロとジェットを両方搭載する混合動力というものでしたが、レシプロ機以下という散々の性能で失敗に終わります。その後、いくつかの失敗作を平然とこなし、「マクドネルF2Hバンシー」にいたってやっと成功といえる結果を手にします。
しかし、これも旧ソ連が開発したMig-15という傑作ジェット戦闘機にまったく歯が立たず、またしても懸命に工夫を重ね、「ノースアメリカンFJ-2フューリー」「グラマンF9Fパンサー」といった成功作にこぎつけます。
国を挙げての失敗と工夫
「こんなものがあったらいいな」というアイデアを実行していく力を見せつけられたのが、初期の垂直離着陸機です。揺れる船のうえに立てた形で真上に離陸し、空中で横向きに直って、戦闘に参加し、垂直に着陸するという奇想天外な発想を試作機にまでしてしまったものです。現在の最新鋭戦闘機では実用化されていますが、1950年代初頭に挑戦的というか、アイデアだけというようなことをやっていたのです。
1951年コンベア社とロッキード社の2社に対して海軍が試作を発注しました。コンベア社の「XFY-1ポゴ」という飛行機は、1954年に地上45mまで上昇することに成功し、その後70回に及ぶ試験を繰り返しましたが、結局計画は中止されています。
写真を見てください。奇妙です。国家事業という失敗が許されないと思うようなプロジェクトで、こんなものを揺れる船の上に直立させて真上に離陸させようなどと考えるとは、その想像力の豊かさには圧倒されます。
当時の技術力を考えればうまくいくはずがないと思うのが、常識的な感覚でしょう。強くなる国はやはり、松下幸之助のような「失敗したら考えて工夫してやり直せばいい」的な逞しさを感じずにはいられません。
この他にも、さまざまな面白いアイデアを形にしています。「敵のミサイルや戦闘機よりも早く、その上を飛べば撃ち落とされない」マッハ3で巡航する戦闘機(写真参照)、「ラジコンのように人が乗らずに攻撃する」無人攻撃機などなど。
やはり、松下幸之助のいうように、失敗を恐れてアイデアも実行なければ何も得られず、失敗を恐れずに挑戦した者のみが成果を得られるのでしょう。松下幸之助の言葉を地で行き、壮大な失敗を繰り返したアメリカ軍戦闘機は、結局、開発当初は珍妙と笑われたような垂直離陸、ステルス(レーダーに映らない)などの数々のアイデアを国を挙げての失敗と工夫により現実のものとして実用化し、他国の追随を許さない戦闘機王国となってしまいました。
取材・文:キャトル・バン