自社ビル建設が享楽の日々を招く タクシー運転手で仕事の原点へ

自社ビル建設を契機に享楽の日々を送るようになった輸入雑貨商社社長のAさん。不渡り手形をつかまされて倒産した後、タクシー運転手でお金を稼ぐ厳しさを体験した。いわば仕事の原点に立ち戻ったのだ。運転手の仕事を1年勤め上げたAさんは、いまでは事業所向けの弁当製造販売にみずからの使命を見出している。

自社ビル完成を機に昼はゴルフ場、夜はネオン街

都内に自社ビルを建てる。この念願を果たしたAさんは、もはや誰の意見にも聞く耳をもたなかった。連日の重役出勤、日中からゴルフ、夜はネオン街へ。躓くのは時間の問題だった。

高校卒業後、上京して日用雑貨の卸売り会社に就職したAさんは、ダントツの営業成績を上げ続け、26歳で課長、35歳で部長に抜擢された。Aさんの夢は一国一城の主になることで、39歳で独立。輸入雑貨の商社を設立した。以来、自社ビルの建設を目標に全力で10年、ついに5階建ての自社ビルを都内に完成させた。しかし、このときがピークとはAさんも周囲も、考えもしなかっただろう。

本来、これからが出発のはずだったが、Aさんは享楽の日々へと出発してしまった。甘言を弄してAさんを喰おうとする取引先や知人が増えるから、脇をしっかり固めよとメインバンクの支店長から釘を刺されていたが、その渦中に置かれたAさんは彼らにのせられ、舞い上がるだけだった。

当時は、携帯電話もポケベルも登場していなかった。Aさんと連絡のつく先は、日中はゴルフ場、夜は高級クラブという冗談のような状況が続いた。そしてAさんは不渡り手形をつかまされ、会社は倒産したのだった。

Aさんから相談を受けた経営コンサルタントは、タクシーの運転手に転職して再出発することを促した。運転手の仕事にビジネスチャンスがあふれていると判断したのではない。1万円を稼ぐことがいかに大変であるかを、身をもって体験させ、お金を稼ぐ厳しさの原点に立ち戻させたのだ。

1万円を稼ぐ厳しさ、早朝に強い体質作り

「どんなに辛くても最低1年は勤め上げること。それを達成したら次の手を打つ。達成できなければサポートしない」これがコンサルタントの回答だった。Aさんは睡眠時間を削って、必死になって働いた。当初は夜勤に身体が対応できるかどうか不安だったというが、必死の精神で乗り切った。もはや後がないという状況に追い詰められていたので、Aさんには、1年間勤め上げること以外に選択肢はなかったのだ。

選択肢がひとつしかなければ、否応なく集中でき、成就できれば何かを会得できる。コンサルタントの目的は、1万円を稼ぐ厳しさに加えて、タクシー運転で培われる深夜から早朝に強い体質作りだった。やがてAさんは深夜にも明け方にも対応できるようになった。

約束の1年がたった。コンサルタントがAさんに与えた仕事は、業務用弁当の製造販売だった。この仕事は早朝に仕込みがはじまるので、Aさんの体質改善が必要だったのだ。Aさんはこの仕事をあらかじめ告げられていなかったが、それはコンサルタントがAさんにタクシー運転に集中させ、余計な思惑を抱かせないための措置だった。

なぜ弁当の製造販売を指示したのか。日銭商売なので、大口の顧客を複数確保すれば安定できる。コンビニエンスストアのない地域で事業所に営業をかければよい。そうすれば事業化はともかく、生業としてなら成り立つと判断したのである。

「弁当製造販売を通して健康に寄与する」という使命感

価格競争に埋没すると、薄利になるうえに品質も低下するので、品質勝負でいく。さらにメニューが飽きられないように、さまざまなバリエーションでメニューを組む。この方針でAさんは北関東の工業団地近くで開業した。

休日はデパ地下やスーパーに足を運び、店員に売れ筋の弁当を聞いて廻るなどメニューの研究に没頭した。料理の専門誌も購読した。Aさんは仕事の原点に戻ったような充実感に満ちあふれたという。上京して就職してからは商品知識や販売方法などをひたすら勉強して、抜群の営業成績を上げ続けた。あの時代の感覚がよみがえったのだ。

弁当販売の営業は新規参入ゆえ容易ではなかった。Aさんは各営業先に試食品を繰り返し届けて、徐々に契約を増やしていった。食という生活に不可分な領域で仕事をしていることにAさんは「地に足が着いた確かさ」を実感している。

当然、過当競争にさらされていて、いつ契約を打ち切られるかは不透明である。Aさんは可能な限りの手作りで、健康志向のメニュー開発、さらに各地の郷土料理を取り入れるなど商品力の強化で競争を乗り切ろうと奮闘している。

契約先事業所の従業員の健康に寄与すること。Aさんは新たな使命を見出して、レシピの配布も検討中である。

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