みなさんも日本で最初の即席麺、「チキンラーメン」は口にされたことがあるでしょう。1958年に生まれ、数年にして国内市場を席巻した「チキンラーメン」は、いまや世界中で作られ消費されているインスタントラーメンの文字通りのさきがけです。
挫折なきチャレンジャー、安藤百福さんの人生
発明者である安藤百福さん(2007年に96歳で没)は、「チキンラーメン」を完成された時、48歳でした。日清食品株式会社をこの時に創業され、いまや世界的企業に発展した同社の礎を築いたのですが、事業家としては「遅いスタート」と言われています。
安藤さんは、20代から繊維製品の製造販売で起業し、戦争など時代の波に打たれながら事業の転換を重ねました。終戦直後からは一種の失業対策事業として製塩や漁業を展開し、そのなかで人材育成もするなど、社会貢献にも熱心でした。
こうした経過のなかで、占領当局(GHQ)から睨まれて脱税容疑で検挙拘束され財産をすべて没収されたり、請われて信用組合の理事長に就任すると、今度はその破綻の責任をとらされたりするなど、何度も危機やどん底に直面されます。
驚くべきことに、安藤さんは普通なら再起不能とみられるような人生の危機に出遭っても、「失ったのは財産だけではないか。その分だけ経験が血や肉となって身についた」と、常にプラス思考で乗り越えてこられました。そして、若いときから身につけていた新規事業を創出する眼力と、旺盛な好奇心をバネにゼロから淡々と再出発を繰り返してきたのです。
即席ラーメンの発明と事業創出も、安藤さんにとっては“人生どん底”からの再出発でした。正に挫折なきチャレンジャーですね。
まったくの手作りで「チキンラーメン」を発明
――数年で一大事業へ
安藤さんは、終戦前後に多くの国民がなめた食の苦労を見て、「衣食住というが、食こそ人間の営みで何よりの基本」と痛感しました。他の事業に追われているときでも、いつか食に関する事業に取り組もうという決意を胸に秘めていたのです。
これを具体化し始めたのは、自らが理事長をしていた信組が破綻した直後の1957年でした。わずかに残された財産である自宅の裏庭に作ったわずか10平米の狭い実験小屋で、家族の手を借りて即席ラーメンの試作開発に没頭するようになります。
安藤さんは、即席ラーメンの開発にあたり、5つの目標を立てます。
第一は、おいしくて飽きがこない味にすること。
第二は、家庭の台所に常備されるような保存性の高いものにすること。
第三は、調理に手間のかからない簡便な食品にすること。
第四は、値段が安いこと。
第五は、人の口に入るものだから安全で衛生的でなければならないこと。
これらの目標は、1年後に完成される「チキンラーメン」で見事に具現されるわけですが、今日でも優れた加工・半加工食品が備えるべき特質を簡潔に言い表わしたものといえます。正しい開発目標を最初にしっかり立てていたのです。
しかし、試作作業は楽なものではなかったようです。手作業で試行錯誤を繰り返し、そのなかから得られるヒントを積み重ねて新たな試みを加えていきます。安藤さん夫妻はもとより義理のお母さんから子供たちまで、総動員で手探りの毎日だったそうです。
ようやく製品化すると、今度は販売です。安藤さんは、試食販売を重視し、エンドユーザーである消費者からの手ごたえを直接つかむことに努めました。最初は消極的だった問屋も、実際に売れるさまを認識すると、安藤さんが提示する「現金取引」の条件も認めて取り扱うようになり、以後、市場に出ると爆発的に売れて事業は拡大します。
創業した日清食品は、数年にして全国に即席ラーメンを供給する企業に成長し、海外への輸出もほどなく開始されることになります。これに他社も追随し、インスタント・ラーメンという新たな産業分野が開かれました。
時代のニーズを的確に把握し、製品で具体化
――カップヌードルで第二の成功
安藤さんが「チキンラーメン」を開発した当時は、日本は敗戦の惨禍から復興への道を歩み、栄養豊富で手軽に食べられる食品のニーズが高まっていた時期でした。「チキンラーメン」は、当時珍重された鶏のスープを麺にしみ込ませ、更にビタミン分を補強して旧厚生省から「特殊栄養食品」の認可も出された優良商品として普及が進められました。これが、お湯をかけるだけで食べられる「魔法のラーメン」との印象とあわせて、消費者から広く支持される土台となったのです。
こうしたニーズを的確に把握することについて、安藤さんは「自分自身で確かめること」を強調しています。調査機関のデータだけを過信せず、自ら試食販売の場に出かけて、消費者の心理や動向を生でつかもうとしたのです。これが第二の成功である「カップヌードル」の発明と爆発的普及につながっていきます。
安藤さんがカップヌードルを開発するきっかけとなったのは、「チキンラーメン」をアメリカに売り込む際、バイヤー側が試食するときに紙コップにラーメンを割って入れ、お湯をかけるさまを目撃したことでした。紙コップは、調理器と食器の役目を果たしたことに着目し、この形での商品化をすぐに思いついたのです。
1960年代末頃には、まだ新しい素材だった発泡スチロールで薄いカップを開発し、そこに成形した麺を入れて製品にすることは相当な技術的困難をともないました。しかし、安藤さんは持ち前の好奇心と人並みはずれたアイデアでこれを完成させ、1970年代に入って試食販売を開始します。
いまでこそ世界中で愛され、カップ麺のトップランナーの地位を守っている日清食品の「カップヌードル」ですが、開発当初は「立って食べるような食習慣は日本人になじまない」とか、「価格が高い」などの理由で食品扱い問屋から否定的な評価を下されていました。これを突破したのは、日清食品が率先して当時、流行の発信地になっていた東京・銀座の歩行者天国での試食販売を実施したことや、野外作業を行なう機関や特に軽便に摂取できる加工食品をもとめる分野に独自に売り込んだことでした。
なんとカップヌードルが爆発的に売れ出す最大の契機は、1972年2月、連合赤軍が引き起こした浅間山荘事件でした。この事件はテレビで長時間生中継が行なわれ、国民の注視を浴びましたが、山荘を包囲する警官隊が寒中、カップヌードルをすするさまが放映され、話題となったのです。
こうして、カップヌードルはテレビ時代の勃興とともに大きくクローズアップされ、日本はもとより世界へはばたいていくことになったのです。
現場でニーズをつかみ、あきらめず具体化する大切さ
――安藤百福さんから学ぶこと
以上のような経過は、安藤さんの著作として08年8月に発売された日経ビジネス人文庫の『魔法のラーメン発明物語』により詳しく、楽しく紹介されています。ぜひ読んでみてください。
私は、単なる製品の発明とヒットにとどまらず、新たな産業の一分野を開拓して世界に普及させる仕事を成し遂げた安藤さんこそ、日本が誇るべきベンチャー事業家だと思います。安藤さんの開拓精神は、あくまでエンドユーザーのニーズを自分の目と体で確かめること、必要と実感した製品の開発には不撓不屈に全力で取り組み、必ずやり遂げることをベースにしています。ベンチャーの精神として、大切にしたいですね。
近頃、海外、そして日本国内で食品安全をめぐる人災というべき事件が相次いでいます。背景には、経営者と製造現場のモラル低下が大きな影を落としています。先にあげた安藤さんの「チキンラーメン」開発目標のひとつ、「人の口に入るものだから安全で衛生的でなければならないこと」を肝に銘じ、それが食品を企業として取り扱ううえでの最低限の死守ラインであることを活動の基本とすれば、起きようのない事態です。
これは食品産業だけにとどまりません。私たちは、あくまでエンドユーザーの立場と視点で自らのサービスや事業を見つめなおし、エンドユーザーと時代が切実にもとめるものに、的確な回答を示す仕事を重ねていくことに全力をあげたいものだと思います。
文:古是三春(キャトル・バン)