勝つための「執念」と「努力」 それが“一流の人”の証である

よく「一流の人」といい、逆に「二流、三流の人」との言い方もされる。そもそもその違いは、どこにあるのだろうか。

“紙一重”ために必死の努力を重ねる

大正・昭和初期に活躍し、「この道」など童謡の作詞者としても知られる北原白秋は、57歳で没するまで、「詩道一筋」の生涯を送った。次々と傑作を著わし、大衆に支持された白秋は、いわゆる「天才」のひとりといえるかもしれない。しかし現実には、そこには血のにじむ努力の積み重ねがあった。

北原白秋の「努力」への信念に関して、「詩歌の修行」(岩波書店『白秋全集24』所収)に次のようなエピソードがある。ある時、彼は、若い急進派の歌人から批判を受けた。
「あなたの歌はやはり型にはまった31文字の歌で、新しい現代の歌といっても、以前の旧派の歌とはただ紙一重の相違ではないか」

それに対し、白秋は答える。「そうです、ほんの紙一重です。しかしこの紙一重のために、この30幾年という長い年月を私は苦労してきたのだ」――そして水泳の競技にしても、ほんの1秒の何分の1という違いを競って新記録をつくるために毎日、朝となく夕となく涙ぐましい練習を続けているとし、「詩歌の修行も同じである」と述べている。

さらに修行について白秋は「突拍子もない大々飛躍などということはめったにできるものではない。修行というものは、石なら石をひとつずつ積みあげていくようなもので、根気よく、こつこつと仕事の力と量とを積みあげていかねばならない。どれだけ天賦の才に恵まれていても、この平生の努力を怠れば、ついには何の業をも大成し得ないであろう」と。

“紙一重”の前進のためにしのぎを削り、そのために必死の努力を重ねる――これが天才といわれる人の真実の姿なのである。たしかに、現在のレベルに満足し、“これでよし”とする人に、成長はない。つねに初心にもどり、“もっと努力しよう”“もっといい作品を残そう”という心をもてる人が向上していけるのであろう。これは現実の生活のなかにおいても、ビジネスにおいても同じことに違いない。

『人事を尽くして天命をもぎとるのだ』

北原白秋が例に出した水泳について、スポーツジャーナリスト二宮清純氏から、次のような話を聞いたことがある。1988年に開催されたソウルオリンピック100メートル背泳ぎ、鈴木大地選手の金メダル獲得秘話である。

100メートル決勝は鈴木選手が3レーン、ライバルのアメリカのバーコフ選手が4レーンを泳ぐ。ただし鈴木選手の決勝に至るまでの泳ぎでは、到底優勝候補であったバーコフには勝ち目がない。

そ こで鈴木選手は作戦を考えた。彼はバサロ泳法の回数を23回から、予選でも練習でもやったことのない27回に、距離にして5メートル延長して勝負に挑んだ のだ。これにより、隣を泳ぐバーコフがあせった。2人は入り乱れるようにゴールへ、まさにタッチの差で鈴木選手が金メダルを獲得した。

じつは鈴木選手は、このときのために手の爪を3~4センチ伸ばしていたという。その長く伸びた爪の分早くゴール板にタッチし、まさにミリ単位の勝負に勝ったのである。執念の勝利といってよい。

二 宮氏は最後にこう語った。「『人事を尽くして天命を待つ』のではなく、『人事を尽くして天命をもぎとるのだ』」と。勝ちには勝つだけの理由がある。負けに は言い訳だけが残る。一流の人とは、まさに勝つための執念をもち、勝つための努力ができる人をさすに違いない。その意味で北原白秋も、鈴木大地選手も、 “一流の人”なのである。

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