本コーナーで掲載する経営者インタビューは、Podcast「社長に聞く!in WizBiz」で配信中の経営者インタビューを編集しています。今回、ご紹介する経営者は、國京紘宇氏(株式会社ナルミヤ・インターナショナル 代表取締役執行役員社長)です。(2023年10月4日 2023年10月11日 配信)
今回は、株式会社ナルミヤ・インターナショナルの國京紘宇氏にお越し頂きました。50歳手前でナルミヤ・インターナショナルに入社し、その後、同社の社長に就任。成功の秘訣では「お客様の満足をどう得るのかを考えること」と語り、その姿勢を貫くお姿から経営のヒントが得られます。ぜひ、インタビューをお聞きください。
新谷哲:本日のインタビューは、株式会社ナルミヤ・インターナショナルの國京紘宇社長です。まずは経歴をご紹介します。1990年に積水化学工業株式会社に入社され、2001年にトーマツコンサルティング株式会社へ入社。その後、株式会社ユージン(現・株式会社タカラトミーアーツ)で常務執行役員を務め、フィールズ株式会社を経て、2023年にナルミヤ・インターナショナルの代表取締役執行役員社長に就任されました。本日はよろしくお願いいたします。
國京紘宇:よろしくお願いします。
新谷哲:最初のご質問ですが、ご出身はどちらですか?
國京紘宇:東京都荒川区です。
新谷哲:小学校時代はどのようにお過ごしになられましたか?
國京紘宇:母方の祖父が荒川区で果物屋を営んでおり、商店街で育ちました。赤羽小学校に通い、下町の環境で地域のおじさんやおばさんに囲まれ、楽しく過ごしていました。
新谷哲:ガキ大将タイプでしたか?
國京紘宇:体があまり強くなかったので、ガキ大将の後ろを追いかけて行くような控えめな性格でした。
新谷哲:中学時代も赤羽にいらしたのですか?
國京紘宇:小学6年生の時に家の都合で、千葉県松戸市に引っ越しました。そのため中学校と高校は松戸で過ごしました。
新谷哲:中学校時代はどのようにお過ごしになられましたか?
國京紘宇:引っ越した所が新興住宅地で、3年~4年の間に小学校が3つ~4つ乱立するような場所でした。転校した小学校もほぼ全員が転校生です。中学校は南中という所に入学しましたが、2年生の時に北中ができて北中に行くことになります。そこには全国から転校生が来ていて、みんな違う制服を着ているような中学校でした。私は下町で育ったので、急にサラリーマン世帯ばかりの環境に入り、かなり戸惑ったことを覚えています。
新谷哲:中学校の3年間で、特に困難なことはありましたか?
國京紘宇:コミュニケーションに苦労しました。赤羽小学校は商店街の中心にあり、周囲にはパン屋やクリーニング屋など、さまざまな商売をしている家庭の子供達が多かったです。一方で新松戸はほとんどがサラリーマン家庭でした。そこでは「お父さんはどこの会社?」というような会話が普通に行われていて、私は「何を言っているのだろう?」と思いました。
新谷哲:高校も千葉県内の学校でしたか?
國京紘宇:高校も千葉県でしたが、松戸ではなく市川の高校に行きました。そこは面白かったです。下町っぽい素朴な子たちばかりで、授業はともかく、とにかく笑いを取ることばかりを考えていました。
新谷哲:お笑いはお好きなのでしょうか?
國京紘宇:お笑いも好きで、音楽も好きでした。中学の時にビートルズを聴いて、レッドツェッペリンやストーンズも聴きました。でも、高校1年の時にレッドツェッペリンのズタ袋を持って学校に行ったら誰も知りませんでした。そうしたら、同じズタ袋を持っている子が隣のクラスにいると聞き、だんだんハードロック好きが集まり始めて、高校の時はずっとアルバイトとバンド活動に力を入れていました。
新谷哲:楽器はギターですか?
國京紘宇:はい、ギターです。
新谷哲:王道的な感じですね。大学はどちらに進まれましたか?
國京紘宇:明治大学の政治経済学部です。
新谷哲:では、明治大学の中でトップクラスですね!
國京紘宇:そんなことありませんよ(笑)。私たちの頃の明治大学は、早稲田や慶応を目指していて、残念な結果になった学生が入ることが多かったです。でも私は、明治大学に入学してとても良かったと思っています。愛校心や六大学の伝統に深く触れることができた最後の世代かもしれません。六大学は、春秋の野球の試合には応援に行かないといけません。秋にラグビーが始まると、そちらも応援しに行かないといけません。私の高校時代は、早明戦や慶明戦、早慶戦などのテレビ中継が多くありました。それで15歳ぐらいからラグビーに興味を持ち始め、大学は早慶明のいずれかに行きたいと考えていました。結果的にギリギリ明治大学に合格でき、それ以来ずっとラグビーを追いかけています。
新谷哲:明治はラグビー強豪ですよね。
國京紘宇:実は、ここ20年ほどはそうでもありませんでした。2018年か2019年頃に久々に日本一になりましたが、それまでは20年ほど勝てない暗黒期でした。私が大学生だった80年後半ぐらいが一番強かったと思います。
新谷哲:明治大学のラグビー部と言えば北島監督を思い出します。
國京紘宇:そうです。今と違って当時はインターネットもなくて、北島監督の武勇伝などは先輩からよく聞いていました。野球では島岡さんという名物監督がおり、私が大学2年生の時に優勝したのが最後だったと思います。今ならパワハラで訴えられかねない監督でしたが、今でも伝説として語り継がれています。私がいた時代はギリギリ面白い時代だったと思いますね。
新谷哲:政治経済学部を選んだ理由は何ですか?
國京紘宇:特に明確な理由はありませんでした。偶然の選択だったと思います。
新谷哲:大学では、どのような勉強をされましたか?
國京紘宇:政治経済学部には入学しましたが、コピーライターになりたいという目標がありました。文章を書くサークルやゼミなどで、積極的に文章を書いていました。
新谷哲:放送作家のようなものを目指していたのでしょうか?
國京紘宇:いいえ、あくまでコピーライターです。私が大学生の頃、電通の佐藤雅彦さんが朝日新聞の広告大賞を獲りました。その広告は紙面全段抜で、ロシア民謡「雪の降る夜は楽しいペチカ」の楽譜が書いてありました。そして最後に小さく、カルピスのマークが添えてあります。これが何の広告かわかりますか?ホットカルピスです。その広告を見た時に「ホットカルピスと一言も書いてないのに、見た瞬間にホットカルピスが飲みたくなる」と衝撃を受けたことを覚えています。その前後くらいに、糸井重里さんの言葉の理論を知りました。西武百貨店の「おいしい生活」をはじめ、キャッチコピーで売上が上がる、人が感動する、世の中が動いていく、それが「かっこいい」と思いずっと勉強をしました。
新谷哲:では、就職活動は大手広告代理店を希望したのですか?
國京紘宇:はい。就職活動は広告代理店をメインに、制作系を目指して活動していました。当時はバブルの時代ということもあって、メーカーなども含めて5社ほど内定をもらいましたが、制作系は全滅しました。就職課に「どうしたらいいでしょうか?」と相談したこともあります。その時に「内定をもらった5つの中で、何をやっているか分からない会社はあるか?」と聞かれ「積水化学工業が何をやっているか分かりません」と答え「ではそこに行け」とアドバイスされました。自分の中で強い思いを引きずって就職できずに後悔するより、何も知らないところに就職した方がいい、というアドバイスでした。
新谷哲:しかし、そうは言っても積水化学工業は日本のトップ企業の1社です。そこに就職できたことは、すごいことではないですか?
國京紘宇:いえいえ。あの時はバブルでしたので(笑)。
新谷哲:積水化学工業ではどのような思い出がありますか?
國京紘宇:特注成型品という、射出成形で部品を作る事業部に配属されました。積水化学工業はプラスチックのパイオニアと言われていました。私の主な取引先はキャノンでした。当社の技術者と一緒にキャノンを訪問して、プリンターの部品を開発段階から試作したり、量産する際の部品金型を工場で作って納品したり、という仕事をしていました。当時はバブルが崩壊して、メーカー各社が日本から中国に渡る直前の時期でした。その中で日本メーカーの最後の力強さを現場で体験できたことが、私の背骨になっていると感じます。でも、当時のキャノンの生産ラインは24時間動き続けていましたし、それに合わせて部品も毎日届けなければいけません。しかも難しい成形品なので、不良品や不具合があると、その対応にも追われていました。私は東京に勤務しながら、関西や茨城の工場も担当していました。積水の工場は埼玉、静岡、奈良にあって、私は1週間に1泊2日や2泊3日の出張を数多くこなしました。そういう生活をしていましたので、その当時にマイルやJRポイントなどが使えていたら、今は相当お金持ちになっていたでしょうね(笑)。10年くらいそんな生活をしていて、納期に追われるストレスもあって、結構大変な生活でした。
新谷哲:積水化学工業の後はトーマツコンサルティング(現・デロイトトーマツコンサルティング合同会社)に移られますが、どのようなきっかけでしょうか?
國京紘宇:経営コンサルタントのイロハのイが学べればいいな、という気持ちで転職しました。積水に勤めながらも「コピーライターになりたい」という夢はまだ持っていて、仕事をしながら週末に勉強していました。「宣伝会議」やコピーライター養成講座にも行っていました。27歳~28歳ぐらいまで、いろいろな応募に出しては最終選考まで残ることもありました。「まだ行けるかな、チャンスあるかな」と思っていましたが、ある時を境に落選が続くようなります。その当時、広告大賞を獲った広告を見たとき、それまで学んできたことと全く違うセンスになっており「これはダメだ」と感じました。ただ、コピーライターの勉強を理由に仕事で手を抜くのは嫌でした。皆に迷惑をかけてはいけないと仕事をしてましたが「私がやりたいことは違うフィールドにある」と思っていました。しかし、コピーライターの夢がなくなると「右脳ばかり鍛えてきたが、左脳を何年も鍛えないまま仕事をしてきてしまった。評価はされているが、経営やマーケティングを何も学んでいない」と危機感を持ちます。それで経営などの勉強をしようと考えたときに、中小企業診断士というコンサルタント資格があるのを知りました。網羅的に経営を勉強したいと思い立ちますが、当時は新婚でした。それで妻に「お金かかるし、土曜日に塾にもいかないといけないが、勉強してもいいか?」と相談したところ、快く応援してくれました。仕事をしながら勉強するのは大変でしたが「マーケティングってこうなんだ、この数字はこういう意味なんだ」と、1つひとつが目からウロコみたいに感じました。学ぶごとに「経営はこういうことか」と分かりはじめ、その結果、30歳~31歳くらいの時に試験に合格できました。資格を取ると色々な人から「コンサルタントの仕事がある」と紹介されます。調べていくと「コンサルタントの仕事は面白そうだ」と感じ、たまたま日経新聞でトーマツの中途採用の応募を見かけました。応募するとトントン拍子で面接が進み、採用してもらいました。
新谷哲:トーマツではどのような思い出がありますか?
國京紘宇:当時のトーマツは100人もおらず、365日24時間営業でした(笑)。一緒に働いた人たちは皆「事業会社の時間軸と、コンサルタントの時間軸は、10倍くらい違う」と言っていました。お客さんに何千万円も出させるようなプロジェクトを動かすので、プレッシャーも大きいです。当然のことながら「お客様の業界の事や会社の事は知りません」とも言えません。あとは、プロジェクトの窓口になるのは30代くらいの人が良いのですが、お客様のプロジェクトリーダーは役員クラスです。そういう人たちに対して、キッチリした丁寧なソリューションを出さなければいけないのは、プレッシャーです。そのため、勉強することも多いです。毎日分析をしたり、インプットしなければならず、量も膨大です。あの3年弱くらいの時期は、私の人生の中でも一番ぐらいに働きました。その時に学んだことは私の背骨になっています。自分の中で「イエス・ノーを出す判断基準」などは、この時期に学びました。トーマツ時代の仲間とは今でも付き合いがありますが、皆すごいです。独立して成功した人、現在もコンサルタントをしている人もいて「なんでそんなに体力があるの?」と思いますが、会えば「とても充実している、皆成長している」と感じます。
新谷哲:その後、株式会社ユージン(現・株式会社タカラトミーアーツ)に入社されますが、どのような経緯でしょうか?
國京紘宇:3年弱くらいハードな生活をしていると、しんどくなる部分が出てきます。また、私の子供も3歳くらいで、末期ガンを患った母親から「いつまでも仕事仕事と言っていないで、子供と家庭を大切にする働き方をしないとダメだよ」と言われていました。「どこか、良い場所はないか」思っていた時に、たまたまエージェント経由で「ユージンという会社があるが、どうですか?」と話がきました。少し前に子供にガチャガチャを買ったこともあり、子供は握ったまま寝るほど夢中になりました。このことに感動して「子供が夢中になるモノを作る会社は絶対に面白い」と思い「行きます」と返事をしてスムーズに入社しました。当時は2003年~2004年頃のIT関連の勃興期です。楽天の三木谷さんのような有名人もいる中では、ガチャガチャはレトロな業界です。しかし、作っているモノのクオリティはとても高く「こんな会社がまだ日本にあるのか!」とトーマツの友人達からは大絶賛されました。ユージンではJASDAQ上場をはじめ、いろいろな経験させてもらいました。ユージン時代の仲間は今でも大親友です。思い出すと本当に楽しかった。
新谷哲:その株式会社ユージン(現・株式会社タカラトミーアーツ)では、常務を務められました。そして2011年に円谷フィールズホールディングス株式会社さんに移られたわけですが、移られた理由は何でしょうか?
國京紘宇:ユージンが上場した直前ぐらいに、タカラとトミーが合体しました。ユージンは独立独歩でしたが、上場から半年後くらいにユージンの社長が亡くなり、社内がガタつきます。そんな中、本社から「そろそろ戻ってこないか?」と提案がありました。要はユージンの上場を廃止して、タカラトミーグループの一員になるということです。ユージンの社員は亡くなった社長の事が大好きで、彼の志を残していきたいという想いもあり、とても悩みました。しかし、本社から言われればどうしようもないので、最終的に戻ることになります。その後は、ユージンが中心になり色々な子会社が統合され「タカラトミーアーツ」という形になりました。正直に言うと、ユージンの社長がいなくなり、ユージンもなくなって「私の役割はこの会社では終わってしまった」という気持ちにもなりました。そんな時に、エージェントの人が現れ「フィールズという会社に行かないか」と誘われました。フィールズでは、円谷プロダクションに出資をして、いわゆるIPに力を入れていくという話を聞き「そういう可能性もあるのか!」と驚きました。どうしようかと悩みましたが、最終的にはフィールズに入ることになります。
新谷哲:フィールズでの思い出はありますか?
國京紘宇:フィールズでは、最終的には社長にまでなられた方が、私の直の上司でした。彼はとても視野が広い人で、いろいろなチャンスを与えていただきました。ユージンの時も新規事業をたくさん立ち上げてきましたが、フィールズでも新規事業をいろいろとやらせてもらいました。本当にいろいろ経験することができて、その例の1つがアイドルグループのカフェ&ショップの立ち上げです。最初は大変でしたが、お客さんが大勢集まったりしてくれるのは仕事として本当に楽しかったです。他にも色々なことをさせていただき、とても良い経験でした。
新谷哲:その後はナルミヤ・インターナショナルに執行役員として移られますが、これもエージェントでしょうか?
國京紘宇:そうですね。
新谷哲:移られた理由は何でしょうか?
國京紘宇:フィールズは、嫌だから辞めたわけではありません。ユージンの時から一貫して子供のビジネスに携わり充実もしていましたが、ナルミヤの先代社長の石井さんにお会いさせていただきました。アパレルのことは分かりませんが、子供のビジネスは色々やってきたので「それが役に立つなら」と入社を決めました。ユージンの時からナルミヤのことは外から見ていました。「エンジェルブルー」をはじめ強力なキャラクターを持っていて、バンダイとも関係がありました。バンダイと色々なコラボレーションをして「スゴイ」と思っていましたが、ハッピーセットのおまけになったときは「おいおい」と思いましたね(笑)。
新谷哲:ナルミヤ・インターナショナルでは東証二部上場、その後、東証一部上場を果たされます。また、國京紘宇社長はどんどん出世され、常務から社長になられます。お話できる限りで構いませんが、ナルミヤさんではどんなお仕事をされたのですか?また、どのような思い出がございますか?
國京紘宇:上場のプロジェクトは2018年~2019年で、証券会社や投資家の方々を回るなど、重たい仕事をドタバタしながらこなしていました。それ以外ですと「みんな子供が好きで、洋服が好きだ」と思いましたので、会社にはしっくり溶け込むことができましたね。石井さんが強力なリーダーシップを発揮されていて、商品に関しても石井さんがしっかりやられていた。一方でファイナンスの方は、取締役のCFOの方がしっかり取り仕切っていました。そのため私は、第三極みたいな形で、社内がうまく回るよう調整しながら仕組みを作ることをしていました。
新谷哲:ナルミヤ・インターナショナルで社長になられていますが、社長になるという打診を受けた時、抵抗感のようなものはございましたか?
國京紘宇:私の人生はある意味「人任せ」の部分があります(笑)。なぜかと言いますと、私の親友でトーマツ時代の仲間から「人生って自分じゃ決められない、人が決めるんだよ」と言われてストンと腑に落ちたからです。彼は大変な思いをしながらビジネスに成功した人で、これは彼が大変な時に言った言葉です。例えば、ガチャガチャがあります。小さな容器の中に、100円や200円で作れる玩具が入っています。ユージンではガチャガチャに対して「これ、子供にとって最高だよね」と熱く語る仲間がいました。そういう環境だとワクワクしたり、「仲間の力になるために、何をしようか」という気持ちが湧いてきます。そんな感覚で仕事をしてきたので、人生の中で「社長になりたい」とは1秒たりとも思ったことはありません。新しいビジネスを作ったり、新しい商品を作って多くの人を喜ばせる方がずっと好きです。そんな時に、ナルミヤの社長になるお話をいただいたので悩みました。人生の師匠に相談したところ「君が社長になるのではなく、社長という役割を君が演じるんだ」と言われました。その時に「あまり肩肘張らずに、社長という役割を演じればいい」と、腹が座りました。
新谷哲:そういう経緯があったのですね。次に、ナルミヤ・インターナショナルの事業内容をお教えいただけますか?
國京紘宇:一言で言うと子供服です。子供服専業で、製造小売、SPAの形をとっています。製造のことはほぼ繊維商社さんにお任せしています。ナルミヤは元々、高い品質のものを高価格で売っていた百貨店ブランドでした。また、ナルミヤの石井前社長が高回転の商品として、ショッピングセンターブランドを立ち上げました。今ではそちら側の方が大きくなりました。それと同時にECというチャンネルも持っていて、(1)百貨店での高級路線、(2)ショッピングセンターでの中価格・トレンド路線、(3)eコマース、の3チャンネルを持っています。これが特徴の1つですね。また、ラグジュアリーもあれば、デイリーよりもやや高めのトレンド系ブランドもあり、つまりは「マルチチャンネル・マルチブランド」です。これができている会社は本当に少ないです。なぜなら、週刊誌や月刊誌を作っている出版社が急に「新聞を作れ」と言われても作れません。それと一緒で、百貨店向けの良いものを作っている人が、急にスピードを高めたショッピングセンター向けのブランドを作れと言われても無理です。当社はそういった部分のサプライチェーンをしっかりと持っていて、その2つを両軸で回せるという点が、もう1つの特徴です。
新谷哲:ありがとうございます。ここからは全く違う質問をいたします。事前に好きなもの・好きなことお聞きして「甘党、カプセルトイ、マーベル、スターウォーズ、ラグビー・野球観戦、読書、映画、ランニング」とお答えいただきました。ここまで話題に上がっていない中から選びますが、甘いものがお好きなのですか?
國京紘宇:お菓子ですとデパ地下のスイーツは大好きです。でも、だんだん血糖値が高くなってきて、妻からも止められており、食べないように我慢しています(笑)。基本的にはチョコレート系が好きです。コンサル時代にハマりました。365日24時間仕事をしていると、脳がヘロヘロになります。そうすると甘いものを欲します。考え事をしたりドキュメントを作ったりしている時、チョコや甘いものを口に入れながら仕事をするのが癖になってしまって、それが良くなかったんでしょうね。
新谷哲:座右の銘もお聞きしていまして、武者小路実篤の詩で「もう一息、もう一息と言う処でくたばっては、何事もものにならない。もう一息、それに打ち克ってもう一息、それにも打ち克ってもう一息、もう一息、もうだめだ。それをもう一息、勝利は大変だ。だがもう一息」とお答えいただきました。これを選ばれる方は珍しいと思いますが、なぜ選ばれましたか?
國京紘宇:この詩を初めて聞いたのは大学受験の時です。それから30年以上「諦めたらおしまい」という気持ちのベースになっています。コピーライターになる夢を諦めなかったのもそれが原点ですし、診断士の勉強をしたのも同じです。実は診断士を受けたときは、1年間で1000時間くらい勉強しました。仕事で地方に行くことも多く、当時、パソコンはあってもスマホはない。勉強するのには本を持って行かないといけない。出張で本なんか持っていったら重くてしょうがないですよね。週末にA3の紙にキーワードを書き込んで、それをポケットに入れて持って行ったりもしました。たまたま1年で受かって良かったようなものの、その過程では「なんでお金払ってこんなことやってるんだろう?」って焦燥感でいっぱいです。トーマツの時も提案や最終報告書の中身について「もう、このぐらいで勘弁してくれませんか?」の連続でした。ユージンに入ってからはお客さん目線の仕事になりましたが「これで満足していいのか?」という想いは同じです。子供たちをもっと喜ばせたいと思って、アイデアを考え続けました。ずっとずっと「もう一息、もう一息」でしたね。最近は年をとって「もう一息」が全然利かないですが(笑)、それでも40代半ばぐらいまでは「もう一息、もう一息」と念じていましたね。10年以上前ですが、2011年にフィールズに入り、もう1回勉強し直そうと思い立って、明治大学にMBAを取りに行きました。トーマツを卒業してもう10年ぐらい経ち、アカデミックな部分もいろいろ変わってきています。でも、診断士の資格もあり、トーマツではコンサルも経験していたので、今さらMBAを取りにいくと友人に言ったら「アホだな」と言われました(笑)。ちょうど、トミーの元専務さんが明治大学のMBAの教授になられていて、とてもかわいがってもらいました。その方に「トミーを卒業します」と話したら、「じゃあもう1回勉強しに来い」と言われて入学しました。でも、その2年間は本当に大変でした。夜7時~10時までの平日授業で、毎日はとても行けないので週2日間ぐらい行きました。土曜日は朝9時~夜6時までずっと授業です。日曜日はずっと課題を作っていました。明治大学のMBAは御茶の水の校舎ですが、朝7時から夜11時まで自習室が開いています。私は会社に行く前、朝7時ぐらいに自習室に入って、2時間ぐらい勉強する。仕事が早めに終わって授業がない時も行って、11時ぐらいまで勉強する。「そんなバカなやつがいるのかな」って自分でも思いましたが、それもすべて「もう一息」です。ここで満足しても仕方がない。チャンスがあるなら「もう一息、もう一息」やっていこう。そう言っていたら、こんなになっちゃいました(笑)。
新谷哲:大変、根性のある、本当に素晴らしいお話でした。次が最後のご質問です。全国の経営者、これから起業する方に向け、経営者として成功する秘訣をお教えください。
國京紘宇:ビジネスの成功の秘訣とは、今まで言ってきたように「お客さんの満足をどうやって取るか」が大前提だと思います。事業の中でどれだけの人を笑顔にできるのか、それがまず1つです。そして、その笑顔を目指す仲間と、どれだけ志を一緒にできるのか。この2つが重要だと思います。お客様を思い、仲間を大切にすること。そして、仕事のやり方や仕組みは常に新しいものが出てきます。スピードを上げて、お客様の満足を高める。このことを心掛けるようにすれば、結果は自ずとついてくると思います。
新谷哲:國京紘宇社長、本日はありがとうございました。
國京紘宇:ありがとうございました。
編集後記
今回は、ナルミヤ・インターナショナルの國京紘宇社長でした。頭もいい、根性もある、そして時代が変われば次のことをやろうとする社長様で、大変すばらしい社長様でした。元々はコピーライターになりたかったものの、仕事ができて大変に出世なさいました。ちゃんと出世しようと思ったら「國京紘宇社長の真似をすべし!」、ベンチャー企業としてうまくやろうと思っても「國京紘宇社長の真似をすべし!」そのぐらい素晴らしいです。それこそ「もう一息、もう一息」と、ものすごい根性を感じました。リスナーの皆さんもぜひ、「もう一息、もう一息」と根性を出して、事業を成功していってほしいと思います。
國京紘宇氏
株式会社ナルミヤ・インターナショナル 代表取締役執行役員社長
1990年4月積水化学工業株式会社。2001年4月トーマツコンサルティング株式会社(現・デロイトトーマツコンサルティング合同会社)入社2003年11月株式会社ユージン(現タカラトミーアーツ)入社。2007年4月同社常務執行役員。2011年1月フィールズ株式会社(現円谷フィールズホールディングス株式会社)入社。2012年4月同社コンシューマプロダクツ事業本部副本部長兼エグゼクティブプロデューサー。2017年3月執行役員 経営企画室長。2018年3月当社常務執行役員 経営企画室長。2021年5月取締役執行役員常務。2023年5月代表取締役執行役員社長。
※本インタビューへの出演をご希望の方はこちらよりご応募ください。
本インタビューは、Podcast「社長に聞く!in WizBiz」で配信中の経営者インタビューを編集したものです。文中に登場する社名、肩書、数字情報などは、原則、収録当時のものですので、予めご了承ください。
今回は國京紘宇氏(株式会社ナルミヤ・インターナショナル 代表取締役執行役員社長)の経営者インタビューを取り上げました。
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