成功経営者インタビュー

株式会社日本ビジネスイノベーション 代表取締役 西堀敬氏 インタビュー

本コーナーで掲載する経営者インタビューは、Podcast「社長に聞く!in WizBiz」で配信中の経営者インタビューを編集しています。今回、ご紹介する経営者は、西堀敬氏(株式会社日本ビジネスイノベーション 代表取締役)です。(2018年10月10日 2018年10月17日 配信)

今回は、ベンチャー企業の事業継続支援会社を展開する、株式会社日本ビジネスイノベーション代表取締役の西堀敬氏にお越しいただきました。西堀敬社長は滋賀県に生まれ、大阪市立大学商学部卒業後、日立造船入社、和光証券(現・みずほ証券)を経て、ウェザーニュースにて上場準備に携わられました。米国・イーコマース会社COO兼CFOとして日本業務を立ち上げた後、2011年日本ビジネスイノベーションを設立、代表取締役に就任され、現在は複数の上場企業の社外取締役を務められています。幅広い活躍を通して得られた広い視野や、成功経営者としてのあり方の詰まった西堀敬社長の経営者インタビューは、大変参考になります。ぜひお聞きください!

新谷哲:本日の経営者インタビューは、株式会社日本ビジネスイノベーション代表取締役の西堀敬社長です。まずは経歴をご紹介させていただきます。滋賀県生まれで、大阪市立大学商学部卒業。その後、日立造船に入社。和光証券へ移られて、国際企画部、スイス現地法人、国際金融部と国際業務に従事されました後、ウェザーニュースに移られ、国際業務の経験の後、財務部長として上場準備に携わられます。その後、アメリカのイーコマース会社のCEO、IRコンサルティング会社取締役、新規上場企業情報サイト東京IPO編集長などを経て、日本ビジネスイノベーションの代表取締役にお就きになられた経営者です。本日はよろしくお願いいたします。

西堀敬:よろしくお願いします。

新谷哲:最初のご質問ですが、ご出身は滋賀とのことで、小学校・中学校時代はどのようにお過ごしになりましたか?

西堀敬:滋賀県は、近江商人発祥の地で、戦後日本で活躍する経営者を多く輩出した土地ですが、小学校の頃はそういう土地と知らずに育ちました。田んぼしかないので、小学校・中学校は田園風景の中を走り回る、そんな形で育ちました。

新谷哲:ガキ大将とかそういう感じでいらっしゃいましたか?

西堀敬:全く逆です。4月1日生まれなので、学年で一番成長が遅く、他の子はできることが、自分だけできない子だったので、それがコンプレックスでした。小学校の低学年から中学年ぐらいまで、気弱な子でしたね。

新谷哲:今の西堀敬社長からは、想像がつかないですね。

西堀敬:いじめられることも多かったですが、小学校6年生ぐらいの時に転換点がありました。皆の前でガキ大将にいじめられていたとき、「お前、殴りたかったら殴れ」とガキ大将が言ったのです。これまで100発ぐらい殴られているので、「ここで100発ぐらい殴ってやろう」と馬乗りになってボコボコしました。そこからそのガキ大将が僕の子分になったんです。

新谷哲:ということは、やっぱりガキ大将だったのですね(笑)。

西堀敬:中学校時代は、ガキ大将でしたね。喧嘩が起こるといつも呼ばれていました。バスケット部に所属していましたので、喧嘩をすると「お前が悪い」と顧問に言われ、平手で叩かれました。でも、中学校時代は楽しかったです。

新谷哲:勉強はできたのですか?

西堀敬:勉強は、普通だったと思いますが、田舎でしたので進学とかよく分からなかったです。中学校3年生の進路に関する三者面談では、教師が父親に「息子さんの将来をどう考えていますか?地元に残して跡取りにするのですか?それとも大阪や東京の大学にいかせるのですか?それによって選ぶ高校が変わりますよ」と言うのです。父親はそこまで考えていなかったので困り、「ちょっと考えておきます」となりました。家に父親と話し合って「とりあえず普通科の高校に行けば、大学に行けるし、地元に残って家を継がせることもできる」と結論がでて、普通科の高校に行きました。

新谷哲:滋賀の高校に行かれたのですか?

西堀敬:そうです。実家から一番近い、地元の公立高校です。

新谷哲:高校時代はどのようにお過ごしになりましたか?

西堀敬:高校時代は、あまり楽しい思い出はありませんでした。高校3年生の時に、体育祭の準備のために、一番近い友達の家に7人~8人で泊まっていたのです。高校3年生でバイクの免許も持っているので、「タバコ切れたから買いに行こう」と夜中に買い物に行ったら警察に5人捕まりました。バイクの免許は持っていましたが、学生証を持っていないので「○○学校の生徒です」って言っても信じてもらえませんでした。一応、進学校だったので「あそこの生徒は、お前らみたいなことはしない」という感じでした。でも高校の校長に連絡が行って、生徒だと信じてもらえました。そこからは担任の先生と親を呼ばれ、引き取られ、謹慎処分を受けました。父親は、「退学になるかもしれないから、私立に転校するしかない。でも高校3年生の9月だから、転校できるか分からない。困った」みたいな話をしました。最終的には、学校側が穏便に済ませたい、という方針になり、1週間謹慎して、普通の高校生活に戻りました。

新谷哲:今のお話だと、運が良いのか悪いのか、捉え方が難しいところですね。高校卒業後は、大阪市立大学に進学されていますが、選ばれた理由はございますか?

西堀敬:選んだ理由は、授業料が安かったからです。私が入学した時、学費は1年間で、14万4000円でしたが、一番高い部類でした。大阪市民は、学費が半分。親の所得が低いとそれも免除されました。

新谷哲:今はそんなことないですよね?

西堀敬:今はございません。橋下さんが市長になってからは「そういうのは駄目だ」となりました。市立大学だけども、国立と同じだけ授業料を取る大学になっています。

新谷哲:大学時代はどのようにお過ごしになりましたか?

西堀敬:当時の大阪市立大学は、学生運動が残っている大学でした。私よりもひと回りぐらい上の人は、ヘルメットを被って、機動隊と撃ち合いをやっていましたが、それがだんだん減っているという時代でした。でも学生運動が残っている大学だったので、いつも機動隊のバスが2台いました。しかも大学にあった寮が、学生運動をしている人達のアジトになっており、全国の大学から人が集まりました。週に2回、3回ヘルメットを被って顔を隠して学生運動が始まると、「もうじゃあここでおしまい」と先生が授業を打ち切ります。「帰ろうか」と思っても、門の内側には30人ぐらいの学生、門の向こう側には機動隊がいて、対峙している。つまり軟禁状態です。そんなことが起こる大学だったので「まともに授業を受けられない。この大学駄目だ。行くのを止めよう」と思います。私は、「アイセック」という学生の団体に入っていたので、それを通じて、他の大学に遊びに行くようになりました(笑)。そんな4年間ですよ。

新谷哲:なんだか、楽しそうな大学生活ですね(笑)。

西堀敬:そうですね。アイセックを通じで色々な大学に行き、友達を作りました。大阪市立大学の方は、男ばっかり。しかも三畳一間の貧乏生活をしていたので、タバコを吸いながら麻雀するしか楽しみがないのですよ(笑)。そんな生活してもしょうがないので、別の大学の空気を吸っていました(笑)。

新谷哲:今の西堀敬先生の姿からは想像できない大学時代で驚いておりますが、遊び人だったのですね(笑)。

西堀敬:いや、そんなことはないです(笑)。

新谷哲:大学卒業後、日立造船という有名な企業へ就職されますが、新卒で入られたのですか?

西堀敬:そうです。

新谷哲:日立造船を選ばれた理由はございますか?

西堀敬:当時の関西でメーカーというと、今のPanasonic、三洋、シャープ、だったのです。先輩の中には「Panasonic」に就職している人が多く、話を聞く機会が多くございました。仕事内容を聞くと、「ナショナルショップに、洗濯機やドライヤーの説明に行っている。それをずっとしている」と言うのです。それを聞いて「1個、何万円の物を、そんな売り方するのはイヤだ」と感じました。それに対し船は1隻1億ドルぐらいで販売していました。当時の為替は230円~240円だったので、1隻230億~240億円と大きなビジネスです。「就職するなら規模の大きいビジネスをする企業が良い」と思っていたので、船を作る日立造船に行こうと決めました。

新谷哲:日立造船は4年ぐらいで辞めていますが、理由はございますか?

西堀敬:私が就職したのは1983年でしたが、1985年9月にプラザ合意があり、すごい円高になりました。それまでは1ドル230円~240円ぐらいで動いていた為替が、いきなり10円の円高になるのです。そこからあっという間に1ドル180円ぐらいになりました。日立造船という会社は、外貨建ての売掛金で、お金が入ってきます。1隻1億ドルで受注しても、船なので引き渡しするのは3年後とかになります。つまり1ドル230円の前提で受注した船が、売り上げる時には1ドル180円になる。1億ドルという規模なので、日本円に直すと50億円も売上が少なくなるのです。船の営業利益は1割ぐらいなので、50億円も下がると全部赤字なんです。売れば売るほど赤字が積み上がり、最終的には1000億円ぐらいの赤字になります。そこから、大リストラが始まります。当時は1万7000人ほどの社員がいましたが、工場の閉鎖などで1万人がリストラ。残った7000人のうち、3000人は子会社に移動という形で、4000人の会社になりました。そのようなことがあったので「この会社もう駄目だ」と思い、転職活動を始めます。日経新聞の求人を見たら、証券会社が一斉に求人していたので「証券会社に行こう」と決めて、転職しました

新谷哲:就職をしたのは和光証券、現在のみずほ証券だとお聞きしています。この後バブルがくるので、給料がすごいことになったのではないですか?

西堀敬:そうなんです!これはびっくりしました!和光証券には、3月1日に入社したのですが、6月に賞与がありました。3か月しかおらず、仕事なんかしていないのに、100万円もボーナスをくれました。日立造船にいるときは給料カットの状態だったので、こんなに世の中違うのかと思いました。

新谷哲:当時の証券会社では、新卒の方も3か月ぐらいしか働いていないのに100万円ボーナス出たのですか?

西堀敬:私は一応、社会人4年目なので4年目扱いでした。だからだと思います。

新谷哲:和光証券の時に、スイスに赴任されたのですか?

西堀敬:当時は外国人の日本株買いがすごかったです。スイスにはプライベートバンクというのがあるので、富裕層のお金がスイスに集まり、プライベートバンクはそのお金をグローバルに運用します。そんな投資をする方々向けに、日本の株などを販売する仕事のために、スイスに赴任しました。

新谷哲:その後、証券会社からウェザーニュースに移られますが、それはバブルの崩壊後ですか?

西堀敬:私がスイスから帰って来て、1年ぐらい経ったら「ロンドンに行ってくれ」と言われました。しかしそれまでの期間、私がやっていた仕事は、今は法律で禁止されていますが、「飛ばし」の処理をしていました。その時に「日本の企業駄目だな。どこかの企業が危なくなったら、証券業も崩れる。これは早く辞めた方が良い」と思ったのです。そのため、ロンドン行きの内示が出た翌日に、辞表を出して辞めました。

新谷哲:ロンドン行きを蹴るのは、もったいないとは思わなかったのですか?

西堀敬:確かに海外駐在員は国内にいるよりリッチな暮らしはできますが、自分の人生の将来を考えた時に「ロンドンにいる間に会社がおかしくなったら困る」と思ったのです。バブル崩壊後は、山一証券とかが飛び、大手といえども資本提携でどこかに助けてもらうことになりましたので、逃げるが勝ちみたいな状況でした。

新谷哲:なるほど。証券会社をやめた後に選ばれたウェザーニュースは、大変有名な企業です。しかし当時はベンチャー企業だと思うのですが、なぜ選ばれたのですか?

西堀敬:ベンチャーはベンチャーですけども、会社が創られて11年目、社員も400人はいましたから、中堅クラスの会社でした。選んだ理由は、「これから天気がビジネスになる時代がくる」と思ったからです。また、ウェザーニュースは幕張にあったことも理由です。私は浦安に住んでいたので、千葉方面に向かうことになります。多くの人は東京方面に向かうので、電車空いているんです。またウェザーニュースの経営者とご縁があり、会ったら「すぐ来い」と言われました。これが選んだ理由になりますが、安易な道を選んだというのは、すぐ分かりました。

新谷哲:その安易な道とは、どういう意味ですか?

西堀敬:1996年当時は、携帯電話があったのですが、持っている人は少なかったです。パソコンも1つの課に1台とかくらいしかなく、自宅にもない。でもウェザーニュースに入ると、Macのパソコンがその日のうちに用意され、携帯電話も用意されていたのです。「これは良いな」と思っていたのですが、最初の土曜日の朝7時に経営者から電話がかかってきて「西堀くん、今どこ?」と言われました。「寝ています」とは言えないので、「今起きて、会社に行こうと思ったところです」と言ったら「分かった。俺10時に会社行くから頼むね」と言われました。その時に「土曜日も日曜日も会社に来いって意味の携帯電話だったんだ」と分かりました。

新谷哲:ウェザーニュースの上場準備に携わっておりますが、上場する前にお辞めになり、アメリカのイーコマースの会社のCEOに移られています。これは何かきっかけがあったのですか?

西堀敬:ウェザーニュースは、私が辞めた翌年には上場できるようにしてあったので、99年に辞めました。正直に言って365日のうちの360日ぐらい会社に行くことに疲れたのです。世間ではネットバブルで一攫千金になっている人がいたので、「俺もこの波に乗らないといけない」と思い、ヘッドハンティングの外資系専門に行きます。すると「アメリカのイーコマース会社が日本法人を作るので人を探している」というので面接したら「やってくれ」という話になりました。

新谷哲:ちょっと話を戻しますが、上場までウェザーニュースにいたら、「持ち株とかストックオプションで儲かるのではないか?」と思わなかったのですか?

西堀敬:多少、思いました。

新谷哲:それらの権利は、もったまま外に出たのですか?

西堀敬: 経営者が、「皆に株を分けてあげたい」と言い、50人~60人ぐらいの社員に分けていました。私もその中におり、他の人より多少多めにいただいたので、それが退職金代わりになりました。

新谷哲:それは良かったです。

西堀敬:退職金というよりは、残業代かな(笑)。

新谷哲:なるほど(笑)。アメリカのイーコマースの会社は辞められて後、IRコンサルティング会社の取締役になられ、東京IPOの編集長にもなられています。IPO系やIR系の会社に行かれた理由はございますか?

西堀敬:上場の準備をしていたので「それを生かせる仕事はないか?」と考えました。その1つは企業の中に入ってCFOをやるものです。IRの支援をする経営コンサルの会社に、和光証券の大先輩が副社長でいたので、「今3つぐらい上場準備中の会社があって、どこかに入ってやりたい。どこが良いかな?」と相談に行きます。そうしたら「お前そんなことやらないで、うちに来て経営コンサルタントやっておいたほうが良いぞ」とお話をいただいたので、経営コンサルタントになりました。

新谷哲: 2011年に日本ビジネスイノベーション様を設立し、経営者となりますが、設立への思いなどはあったのですか?

西堀敬:この会社は、元々は私が作った会社ではありませんでした。法人13社、個人7人が出資して作った会社です。ITベンチャーのスタートアップに投資をして、ハンズオンで成長させよう、という事業でした。設立から12年経つと、50代の半ばから60代の前半の出資者が多かったので、半分以上の人が「株主としてなかなか支援ができない」となり、「この会社は機能しないのでやめたほうが良い」という話になったのです。でもあるお酒の席で「会社を閉じるというのはもったいないから、誰か会社を引き受けて何か使ったらどうだ」と誰かが言い出し「そうだね」と皆が同調し、私の顔を見て「お前だけ経営者やっていないだろ」となりました。「次の日になったら皆、忘れるだろう」と思い「検討します」と言ったんですが、翌日に3人~4人から「株主総会やって決議しろ」とか「株式譲渡だ」というメールが来たので、「これは断れない」となり、私が経営者になりました。

新谷哲:日本ビジネスイノベーション様はM&Aや事業承継の事業を経営しているのですよね?

西堀敬:そうですね。新規上場の経営コンサルティングをやっていますが、M&Aを主軸に経営をしています。

新谷哲:将来は、どのような会社にしたいと思い、経営をしていますか?

西堀敬:私が構想していることは、オペレーションカンパニーにすることです。M&Aといっても結局は経営コンサルティング業で、人の仕事を支援するだけの仕事です。それよりは何かオペレーションがあったほうが良いので、そんな事業を経営したいです。ゼロからスタートするというのは難しいので、すでにあるビジネスを譲ってもらい経営をする。その候補を探すという意味でも、M&Aは良い事業だと思っています。

新谷哲:私も経営コンサルタント出身で、WizBizの事業を経営しているので、ちょっと似ている部分があると思います。ここからは、違うご質問をいたします。好きなもの・好きなことで「お酒・ワイン・チーズ好き、ゴルフ、昔はマジック」とお答えいただきました。マジックがお得意なのですか?

西堀敬:マジックは、マジックをやるためには2つの要素が必要で、1つは道具。もう1つは繰り返し練習をするということです。マジシャンって皆、勤勉だと思います。1つのことを延々と繰り返すことができないと、マジシャンにはなれません。

新谷哲:マジシャンを目指されたことがあるのですか?

西堀敬:テーブルが宙を飛ぶマジックの道具は持っています(笑)。知り合いの結婚式の余興でやったり、ある上場会社の社長就任パーティーでもやりました。

新谷哲:今もマジックをされているのですか?

西堀敬:手先が動かなくなったので、今はやっていないです。

新谷哲:失礼いたしました。座右の銘もお聞きして「ローマは一日にして成らず」とお答えいただきましたが、なぜこれを選ばれたのですか?

西堀敬:あまり器用ではないので、時間をかけないとできるようになりません。成果を出すためにはコツコツとやり続けるしかなく、これはもう「ローマは一日にして成らず」、「Roma was not built in a day」なのです。中学生の時からこれがずっと座右の銘です。

新谷哲:最後のご質問になります。全国の経営者、これから起業する方に向けて、経営者として成功する秘訣・方法をお教え下さい。

西堀敬:経営者として成功する秘訣は「やらなきゃいけないことを、しっかりやる」です。やりたいことをやるだけでは、世の中は回りません。やらなければならない仕事をきっちりやるということは、それを評価してくれる人が出てきます。自分を評価してくれる人を多く作ると、自分自身の自信にもなり、それが経営者としての成功に近づくのだと思います。だから「自分のやりたい会社はこうだから、こんな事業を経営するんだ」とばかり言っていないで、まず「自分がやらなきゃいけないこと、自分ができることをやる」ことが重要です。

新谷哲:「今、やらなきゃいけないことを、やる」ということですね。難しいことですが、私もチャレンジしていきたいと思います。西堀敬社長、本日はありがとうございました。

西堀敬:どうもありがとうございました。

編集後記

西堀敬社長は、大変親しくしている経営者です。上場に関しては日本でも有数の経営者です。いろんな経験をされていて、すごく努力家です。何かあったら受け入れてチャレンジしているので、だから成功経営者になられたのだと感じました。私も、何でも受け入れて頑張って、成功する経営者になりたいと思います。

西堀 敬 氏
株式会社日本ビジネスイノベーション 代表取締役

1960年滋賀県生まれ。大阪市立大学商学部卒業後、日立造船入社。その後、和光証券(現・みずほ証券)で国際業務に従事。ウェザーニュースでは財務部長として上場準備に携わる。米国・イーコマース会社COO兼CFOとして日本業務を立ち上げ2002年より新規上場企業情報サイト「東京IPO」編集長。11年、日本ビジネスイノベーションを設立、代表取締役に就任。複数の上場企業の社外取締役を務める。

※本インタビューへの出演をご希望の方はこちらよりご応募ください。

本インタビューは、Podcast「社長に聞く!in WizBiz」で配信中の経営者インタビューを編集したものです。文中に登場する社名、肩書、数字情報などは、原則、収録当時のものですので、予めご了承ください。
今回は、西堀敬氏(株式会社日本ビジネスイノベーション 代表取締役)の経営者インタビューを取り上げました。

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