自己模倣を打破した信長、滅んだ日本陸軍。
織田信長は桶狭間の合戦での勝利の要因となった奇襲戦法を、その後二度と使わなかった。
成功体験に見向きもしない織田信長
かの織田信長の一生を語るときに、どうしてもはずしてはならない戦が「桶狭間の戦い」であろう。1560年6月12日に行なわれた、学校で日本史を習った人間なら誰もが聞いたことがある有名な合戦だ。
桶狭間の戦いとは、いうまでもなく2万5000人といわれる巨大な軍団を率いて、尾張に侵攻した駿河の戦国大名・今川義元に対し、信長がわずか3000~4000人の軍勢をして本陣に突入し、義元を討ち取って今川軍を潰走させた戦いだ。この戦をもって駿河を中心に勢力範囲を拡大しつづけた今川氏は没落し、勝利した信長は京に向かって急成長していった。
ここで特筆すべきは、その後の信長の戦いぶりである。彼自身、敵よりも過小な兵力をもって本陣に突入するという奇襲、すなわち賭博性の高い戦法は、以後二度と使うことはなかった。ともすれば成功体験におぼれ自己模倣を繰り返したくなるところだが、信長にはそれが一切なかったのである。
時としては外交により面従腹背の姿勢に終始しながら戦を回避し、いざ一戦を構えるとなると後詰の補給網すらも完璧にし、敵を凌駕した兵力をもって勝ちにいった。そこには奇襲といった要素はかけらもない。
信長自身が新戦術を開発
またそれは自身の戦法に限らず、自らが次々と新たな戦術を生み出し実践していったのも信長である。その良い例が武田軍団との対決となった長篠の合戦だ。当時の武田軍団は、信玄亡き後も日本最強の呼び声が高く、事実長篠の合戦時においても将領の個々の実力は、信長と家康の連合軍のそれと優ることはあっても劣ることはないといわれた。
しかし結果はご存知のとおり。世界史的にみても空前絶後の3000丁の鉄砲を三段構えで打ち放った信長・家康軍の前に、旧態依然とした(というか、むしろ当時の主流であった)騎馬戦で挑もうとした武田の軍勢は奮戦あえなく散ることとなる。
まさに長篠の合戦は、新発想の軍法の前に、旧態依然とした体制が敗れた一戦であったのだが、勝った信長ではなく、負けた武田側の軍法が“甲州軍学”として後世に伝えられたことは一種のアイロニーかもしれない。
「日露戦争はこうして勝てた」という方程式
さて、この桶狭間の合戦に似通った状況に追い込まれ、そこで勝ってしまったがゆえに、硬直した精神構造に陥り、最後には敗れ去ったものがいる。日本陸軍である。明治維新後に創生され、国内外において着実に地歩を固めてきた日本陸軍であるが、なにしろ日本自体が農業国に毛が生えたような国力しかない。国民に土を舐めるような生活を強いながら、なんとか陸軍(もちろん海軍もだが)を保ってきたのである。
そこで日露戦争(1904~1905年)である。相手は、専制君主制の権化のような国ではあるが、かのナポレオンとの戦いにも勝ち抜き、世界第一級の陸軍国といわれていたロシア。そのロシアが中国から朝鮮を経る南下政策に踏み出そうとしたがゆえに開戦となったのだが、その状況は尾張の国に攻め入ろうとする今川義元と、それを迎え撃つ信長と酷似している。
ただ当時の日本陸軍は、国力に差があるゆえに砲弾や弾薬が慢性的に不足をしたり、圧倒的に兵数がロシアと乖離したりと欠けたところもあるが、それでも錬度、装備については世界一流の陸軍であったといわれている。ロシアとの数々の会戦も、薄氷を踏む思いであるが勝利を重ね、最後には戦勝となる。
それらの戦いが先例になってしまったと、司馬遼太郎氏は語っている。つまりはその後の陸軍首脳の頭では「日露戦争はこうして勝てた」という方程式ができあがってしまい、つねに装備は二流のまま、精神性を強調することによってのみ戦いに臨んでしまったのだ。
未発達な工業力の前にさまざまな制約があり、望むべくレベルに達する国産武器が作れなかったという側面はもちろんあるが、その精神性を強調する教条的な性質は指弾されるに十分といえる。
いずれの世、いずれの場においても、成功体験だけに頼った思考には勝利の匂いはしない。信長はそのことを知っていたからこそ、覇権を手に入れたに違いない。