陸戦の命運を決した大会戦の勝利はひとつの軍隊モデルがもたらした


奉天会戦とは、日露戦争最末期に行なわれた、陸軍の死命を決した戦闘をいう。都合24日間にわたって、両軍合計約60万にもおよんだ大軍の戦いは、世界陸戦史上空前の大会戦であり、世界の戦史に多大なる影響を与えた戦いとなった。

最後の力をふりしぼる奉天会戦

奉天は朝鮮半島の北方、中国大陸内陸に入った交通の要衝都市であった。なにしろヨーロッパで徴兵されたロシア軍兵がシベリアを鉄道で横断し、降り立つ地が奉天であったのだ。

開戦とともに数々の戦いをギリギリのところで勝ち抜き、ロシア軍を朝鮮半島の北に北にと押し上げてきた日本軍は、兵力も国力も力尽きかけていた。最後の力をふりしぼり、この奉天会戦の勝利をもって講和とし、戦争の終結にもちこみたかったのである。

会戦は1906(明治39)年2月26日から開始された。日本軍の戦略は、左翼に展開した乃木希典大将率いる第3軍が先んじて北進し、ロシア軍がその対応に追われる間隙をつき、第1、第2、第4軍が正面から戦線を突破しようというものであった。

しかし正面に控えるロシア軍は、世界一の陸軍との評判にふさわしく、コンクリートで固めた陣地と砲兵との見事な連携によって日本軍の進撃を阻む。会戦の主役は、敵正面を突破する第1軍のはずであったのが、苦戦しながらも北進を続ける第3軍に移っていくことになる。すなわち「第3軍を先頭に他軍を追尾させ、奉天をぐるりと包囲する」作戦に変更となったのである。

ただ形式を整えるという悪例が登場

第3軍が奉天に向かって翼を広げるように包囲しようとすると、ロシア軍はそれ以上の兵力をもって翼を張り、第3軍をとうせんぼする。それが繰り返されて、第3軍はいたずらに北へ、北へと流されてしまう。奉天を東に見ながら、それを追い越し、結局のところ奉天に進撃ができない状況がつづいた。

満州に展開する日本軍を統括する総司令部は、そのありさまを厳しく指弾し、奉天の後方にでて、鉄道を遮断するよう督促する。ロシア軍の激しい攻撃でそれができない第3軍は、ついには形を整えるためだけに第3軍の先頭にいた秋山好古以下騎兵隊(歩兵と砲兵を加えた混成支隊)に、奉天攻撃を命じるのである。高等司令部の命令に対し、成功の見込みのないまま形を整えるという悪しき例が、日露戦争はおろか帝国陸軍史上はじめて登場したのである。

一方、奉天攻撃の命を受けた秋山支隊は、騎兵中心の部隊でありながら馬を降り、機関砲をもち、歩兵・砲兵と連携して陣地を構築しながら、一歩一歩奉天に肉薄していく。ついには奉天後方の鉄道基地近くに進出し、砲兵によって鉄道基地を焼き払うことに成功するのだ。

ロシア軍総司令官のクロパトキン大将は、その事態に過敏に反応し、全線にわたって攻勢にでていた自らの軍の進撃を停止させ、さらに内陸の鉄嶺まで退却してしまう。結果、日本軍は膨大な戦力を失いながらも、奉天占領に成功するのである。
戦略的立場を理解していた秋山好古

秋山好古は、日本騎兵の父といわれ、草創期から騎兵の発展のために尽力してきた。大陸で率いた騎兵士官はすべて好古子飼いの将校であり、その特性も弱点も知り尽くしていた。だからこそ歩兵・砲兵との混成を決断し、さらには機関砲の配備までも具申していたのだ。

つまり自らの軍を冷静に分析し、弱点を補うためのビジョンを確実に達成し、ひとつのモデルをもって戦争に参加していたのである。また斥候という情報収集ならびに分析機能を有する騎兵の長として、自らの置かれた戦略的立場を理解していた好古が、上層部の命令に腐らず冷静に対応していったことも勝利の要因といえる。

圧倒的な優勢なロシア軍に対する奉天での勝利は、アメリカやイギリスなど列国の賞賛を集め講和を促す気運を進めたが、決定的打撃を与えるまでには至らず、なおロシアは戦争継続派が主流を占めていた。これが日露戦争の雌雄を決する最後の決戦、日本海海戦へとつながっていくのである。

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