薪を背負って本を読んでいる姿の二宮金次郎(のちの尊徳)像が小学校の校庭にあった、という方も多いのではないだろうか? 江戸時代後期に「報徳の考え」を唱えて農村の復興を指導した彼は、明治以降「勤勉の象徴」とされ、多くの経営者の事業経営に影響を与えた。その教えに迫る!
「分度」の考えで財政再建
二宮尊徳(通称金次郎)はなぜ有名なのか? ――彼は、武家の財政の建て直しに成功するほか、自ら編み出した「報徳の考え」により江戸後期の落ちぶれた農村を次々と復興させた、農政の神様と呼ばれた人物だからだ。とくに「分度」という考えは財政再建に機能した。「分度」とは、「自分の置かれた状況や立場をわきまえ、収入によって支出に限界を設置し、その範囲で余剰ある生活をする」というものだ。
尊徳は天明7(1787)年、小田原市郊外の豊かな農家に生まれた。しかし13歳で父を16歳で母を亡くし、耕地も洪水で失い、生家が没落という不幸に見舞われた。尊徳は、伯父の家で苦難の青年時代を過ごす。農家の仕事に励むかたわら、荒地を耕し、わずかに残った生家の田畑を小作に出すなどの工夫をして収入を増やしていった。日夜働きながら、寸暇を惜しんで「論語」「大学」「中庸」を読み、「勤勉」につとめた。それが例の像に表現されているようだ。
24歳のときに、独力でついに一家を再興した。その才を買われて奉公した小田原藩家老、服部家の財政の建て直しにも成功。文政5(1822)年、小田原藩大久保家の分家で旗本の宇津家の所領下野国桜町(現在の栃木県芳賀郡二宮町周辺)の復興に抜擢される。
収入を上まわる支出は必ず破綻する
その桜町領は公称4000石であったが、実際に上がる年貢は1000石に満たない状態。耕地の67%が荒れ地となっているにもかかわらず、4000石という“格式を保つため”借金を重ねていたのだ。1000石が「分度」であるのに4000石の生活を送るため、支出の4分の3は借金――これでは破綻するわけだ。
尊徳は宇津家の「分度」を1000石と定め、10年後に2000石とするとした。毎日農家を一軒一軒訪ねて、農民に対しても「勤勉」を説いた。努力が実を結び、桜町領は3000石を超える“実質上”豊かな村に生まれ変わった。
さて、我々は自分の収入を理解したうえで行動をしているだろうか? 格式を保つための出費はしていないだろうか? 収入を上まわる支出は必ず破綻を招く――現代の我々にも通じることを尊徳は伝えてくれている気がする。
桜町領復興で、目標2000石を超えた1000石は宇津家へ渡さず、農民に還元した。これも尊徳の思想のひとつ、「推譲」と言った。倹約によって余った分は、家族や子孫のために蓄えたり(自譲)、他人や社会のために譲る(他譲)ことで、幸福な社会ができるという贅沢への戒めだ。主眼は「一円仁」の言葉に象徴される。領主も農民もひとつのものの二つの側面にすぎない、だから領主もたち農民もたつというものだ。
戦後の経営者たちに再評価される尊徳
尊 徳の弟子たちは、彼の考えを「報徳運動」として実践し広めていった。どんな階層の人でも努力を積み重ねれば報われるということが、勤勉を尊ぶ日本の国民性 と相まって今日まで伝えられている。明治になって、渋沢栄一、安田善次郎、豊田佐吉など代表的な事業家に多大な影響を与えた。彼らは、「人間の欲を認め、 周りと調和させながら、金銭的にも精神的にも豊かにする」実学として学んだ。
戦後も松下幸之助や土光敏夫など、名経営者と呼ばれる人物たちが二宮尊徳を再評価し、事業経営に大きく活かしたといわれている。
いまではすっかり姿を見なくなった二宮金次郎像。背景には、第二次世界大戦での金属供出に鍋や釜と同様に借り出されたという悲しい事実がある。さらに、本を読みながら歩く姿を児童が真似ると交通安全上問題があるとした現代的な理由もある。
身近ではなくなってしまった人物だが、貧しさのなかで学ぶ尊い精神と、財政を豊かにした勤勉さは、日本人の心のなかに残していきたいものだ。