天下人・豊臣秀吉のエピソードは多い。そこから見え隠れするものは、現代に通じる一級の経営感覚である。
一級だからこそ疎んじられた秀吉
天下人・豊臣秀吉の若き日の逸話は多い。立志伝中の『太閤記』は世に広く知られ、そこに登場する逸話は、日常の生活のなかでも語られるほどだ(懐中に忍ばせた草履のエピソードなどは、ほとんどの人が知っているに違いない)。
まさに天下人として栄華を極めた秀吉であるが、彼は武将、もしくは天下人にならなくても、(いまでいう)ビジネスの世界で一級の経営者になっていただろうことは容易に推察できる。
彼は織田信長に仕えるまでに40になんなんとする職業を転々としたといわれているが、それはすべて長続きしなかったからではない。むしろ一つひとつについ て、器用であり、独創的であるがゆえに、仲間から疎まれ、結局は自らが身を引かざるを得なかったというのが実情とされる。秀吉が信長という大樹のもと、実 力のみが評価される戦国の武士社会に身をおいたことは、彼の才能からみればまさに幸甚であった。
あるとき信長が、自らの居城である清洲城での燃料費(薪代)が異様にかさんでいることを知る。短気な信長は、即刻いままでの薪奉行をクビにし、秀吉にその任をまかせる。燃料費の削減こそがその使命である。
秀吉は清洲城内で燃料の必要な場所に自ら入り込み、その実態を調査しはじめる。台所で米を炊き、野菜を煮付けるにはどれほどの燃料が必要かを自ら実験した。暖房が必要な季節にはどれほどの薪が必要かも詳細にチェックをしてみた。
後代のために支払った「苗木代」
こうして必要な使用量を確認した後に、彼はその流通過程を調べる。すると生産地から城内に運び込まれるまでに、多くの人間が介在しそれぞれがマージンを受 け取っていることを知る。そこで彼は、それら古い仕入れルートを切り、村々にある枯れ木を城内に運び込み、無料のまま薪として使うことを決断する。いわゆ る格安の直販ルートを開拓したわけである。
ここまでならおよそ器用な人間なら考えつくことかもしれないが、秀吉の真骨頂はその後にある。本来は無料となった薪代を「苗木代」として支払わせ、城下の 村々に植林を開始した。たんに消費するだけではなく、後代のために木の生育をはじめたのである。この発想と行動には、かの信長も感心することしきりであっ たという。
また木については、秀吉にはこんなエピソードもある。信長がある山の木の本数の調査を命令したときのことだ。他の家臣たちは草木がうっそうと茂る山中に て、数える途中でわからなくなってしまったが、秀吉は足軽に縄を持たせ、一本一本縄で木を縛り、用意してあった縄の数から残った縄を引き、見事木の本数を はじきだした。思わず感嘆してしまう発想力だ。
ただその才覚も、信長のもとであったからこそ発揮できた。信長は門閥に頼らず、氏素性に関係なく実力ある者を拾い上げ、武将に育て上げたことで有名だ。凡 庸な武将の下では、秀吉自身41回目の転職を経験するだけになってしまっただろう。この人こそと見極めた秀吉の慧眼か、こいつこそと見極めた信長の眼力 か。歴史はおもしろい。