戊辰戦争の最中、日本全土を焦土としたときに革命が成就すると信じていた西郷隆盛にとって、官軍司令官、大村益次郎の手際のいい指揮ぶりは片腹痛かったに違いない。
その西郷、戊辰戦争の最中にいきなり江戸から辞し、郷里である鹿児島に帰ってしまうことがあった。世にいう北越戦争における官軍の苦戦ぶりに、ここぞとばかりに自ら兵を率いて、出陣したのである。
西郷はその許可を大村に求める。しかし大村は、「あなたが行く頃には戦争が終わっています」と取りつくしまもない。思いあぐねた西郷は、自ら陸軍大将とし ての地位を辞し、鹿児島へ戻り、そこで新たに兵を募り、激戦の地・長岡に出向いたのである。結果は、大村の予想どおり西郷が北陸の地を踏むころには戦闘は 官軍の勝利で終了していた。
西郷にして心を迷わせた北越戦争、仕掛けたのは長岡藩家老、河井継之助である。河井は、大政奉還―明治維新という時流のなかで、官軍、幕軍ともつかず「一藩武装独立」路線を選択し、結果長岡藩を流血と焦火の地としてしまった。
しかも「一藩武装独立」路線は、河井の中では早くからあったようだ。刀槍にかえて最新式の洋式銃を家中にもたせ、当時めずらしかった機関砲までも、横浜に いたスイス商人から仕入れている。だからこそ激烈な北越戦争がなしえたわけだが、はたして藩民はどうであったのか。河井のなにを信じたのか、「お上」のい うがままに戦地に赴いたのか。
河井の評価は、分かれるところである。たしかに河井を主人公とした司馬遼太郎の「峠」は人気の高い一作であり、広く読者の心をつかんでいるようにも思え る。司馬氏も「もし西軍側の人物であったら、今頃お札になっていたであろう人物」と最大級の評価をしている。
しかしいまとなってみれば、かの時代のなかで「一藩武装独立」との路線は、現実的ではなく無意味な冒険主義にも思える。河井自身が信奉した陽明学(知行合一の思想)のために、結果的に藩を犠牲にし、自死したことも否めない。
北越戦争の戦いは何を生み出したのか、現在においても定かではない。いえることは指導者の信念とは何を機軸におくべきなのかということ。自分の狭隘な主義 主張か、藩民の生命か。そしてその一方で、民が賢くなければ、空に石を投げるような争いがまたどこかで起こるであろうということだ。