経済活動で薩長を融和した坂本龍馬

司馬遼太郎『龍馬がゆく』はあまりにも有名な1冊だ。この本によって、坂本龍馬は世に定着し、秀吉とともにキャラクターが愛され続けていると言えるだろう。

下関で価格を知り、大阪で売りさばいた龍馬

坂本龍馬の人生のなかで、いくつかの日本初が生まれた。日本初の新婚旅行、万国公報の運用などだが、日本初の株式会社設立もそのなかに入れなくてはならない。長崎・亀山に本部を構えたことから名づけられた亀山社中(のちの海援隊)がそれである。

その性格はいわば私設の、海軍・商社的性格をもった浪士結社。当初は薩摩藩の庇護の下に、交易の仲介や物資の運搬などで利益を得るのを目的としながら航海術の習得に努め、その一方で国事に奔走していた。土佐藩を脱藩した龍馬にとってみれば、まさに自身で築き上げた小さな藩であったのだ。

さてさてこの亀山社中、尊皇攘夷だぁ、佐幕だぁと奔走していた他の志士と違って、きわめて近代的な発想で幕末の争乱を迎える。たとえば亀山社中の支店は大阪と下関におかれた。それは米相場、綿相場が下関を境に大きく変動するためで、龍馬らは両地で価格の情報をつかみ、あるときは下関で安く仕入れ、あるときは九州を駆けめぐって米や綿を仕入れ、大阪で高く売りさばくという商行為を行なっていたのである。

その意味では、亀山社中とは日本で最初の株式会社であるとともに、はじめての情報商社という性格をもっていたのだ。この他の志士にはない龍馬の経済感覚は、世に名高く倒幕の基点となった薩長同盟の際にも如何なく発揮された。

長州米のやり取りで悪感情が消え去った

薩摩の手により京都の政治の舞台から朝敵として追い落とされ、さらには幕府による征伐、英国などの四国戦争にも破れ疲弊しきっていた長州は、その発端を作った薩摩を憎みきっていた。しかし一方では、薩摩と同盟を結ぶことが倒幕のいちばんの早道であることもまたたしか。

感情的にねじれきった関係をどう修復するか。龍馬はそこで米を使ったのだ。京都で活躍する薩摩は、藩の体面を保つために米を食べなければならない(陰で芋とよばれていたのだから)。しかし藩は飢饉にみまわれ、米を高い価格で購入していた。そこで龍馬の登場だ。

長州の宰相・桂小五郎を説ききって、薩摩のために長州米を供出させる。米をやり取りする間に、薩摩と長州の感情を融和させてしまうのである。いみじくも桂はいう。「口角泡を飛ばし、白剣をきらびやかせながら奔走するのが志士かと思っていたが、龍馬の方法は違う。米が魔法の種にされてしまう。いつのまにか薩摩への悪感情が消えてしまった」と。

その一方で、第2次長州征伐時には、朝敵のため通商ができない長州に代わって最新ライフル銃と汽船を買い求めているし、いざ長州・幕府の海戦となるや、龍馬自身がひらりと軍艦に飛び乗り、関門海峡で幕府海軍と一戦交えている。亀山社中とは、昨今話題の民間の軍事会社でもあったのである。その多面性こそ、龍馬自身の多面性を物語るものといえるだろう。

亀山社中は幕府瓦解直前に、土佐藩肝いりの組織となり海援隊と改められる。倒幕戦争のために膨大な借金をしたのだが、その一切の肩代わりをすることで、維新後海援隊の機能を譲り受けたのが、土佐藩・岩崎弥太郎だ。彼はそこから発展させ、後の三菱を築き上げていくのである。

近代日本海軍の祖として知られた龍馬であるが、近代企業の祖としての業績はもっと評価されてもいい。

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