絶妙なバランス感覚があった“逃げ”の桂小五郎

長州藩の政務のトップにいた桂小五郎。根っからのバランス感覚と、剣の修行と磨いた俊敏さから幕末の動乱期を生きぬけた。

晋作が欲した政治家、桂小五郎

幕末の寵児といわれ、倒幕の推進勢力となった長州藩の高杉晋作は、畢生の革命家といわれている。父親が藩の高級官僚であった晋作は、たとえば江戸は元禄の頃に生まれていたとしたら、ただの蕩児として家族に迷惑をかけながらその一生を終わっていたに違いない。戦時、乱時の幕末だからこそ、その資質が生かされたのである。

革命家と政治家とは違うものらしい。以前この稿でも書いたが、晋作は長州藩がその政権を親幕派に牛耳られた時、「長州男児の肝っ玉をお見せする」と宣言し、わずか80余名の同志とともに挙兵。親幕派政権を倒す突破口を開く。歴史に「もし」は禁句であろうが、この挙兵が失敗に終わっていたら、幕末のストーリーは大きく変わっていたと思われる、エポック的な戦勝だった。

当然、政権を奪取した長州藩攘夷派の第一の功は晋作に帰するのだが、晋作は政権の要職につかない。自身は天才的な革命家とは思っていたのだが、政治家ではないと自らも知っていたのだ。では、晋作が欲する政治家とは誰か。それが桂小五郎であった。

真骨頂はその絶妙なバランス感覚

桂小五郎は、松下村塾の流れに与し、江戸きっての剣豪、かつ藩の外交担当者・指導者・藩庁政務座の最高責任者として活躍する。が、晋作の挙兵によりクーデターがなったときには、朝敵となった長州藩の残党狩りを逃れるために、ただひとり京都から但馬へと潜伏していた。

その後、桂の無事を聞きつけた晋作らの手により、長州藩に帰国。攘夷派のトップとしてその後の対幕戦争、薩長同盟の締結、倒幕を指揮し、維新後には西郷隆盛、大久保利通とともに“維新の三傑”と称えられるようになる。

書生気質が抜けぬ長州では、たとえば西郷隆盛のようなカリスマ的な指導者は出づらいという。事実、桂も藩トップになったものの君臨するわけでなく、居並ぶ志士たちにすれば“兄貴分”でしかなかった。

司馬遼太郎氏によれば、桂の真骨頂はその絶妙なバランス感覚にあるという。暴走を繰り返した長州藩のなかにあって、たとえ暴挙の企みを知ろうとも、はなから抑えるのではなく、容認しながら人知れず反対勢力に肩入れをし、暴挙自体の効果を薄めてしまう。

いわゆる傾いた天秤の逆側に、そっと重石を乗せる作業に徹した。そのことにより、人心の掌握をし、政務の舵きりをすることができたのだ。

“逃げの小五郎”との異名

坂本龍馬と同時期に江戸にて剣を学んだ桂は、塾頭にまでなり、当代一流の剣の使い手となる。しかしその後龍馬と再会した桂は「君は人を斬ったか」との龍馬の問いに、「斬らない」と答える。後世、“逃げの小五郎”との異名をとったほど、修羅場となったときにも剣をも抜かず逃げに徹したというのだ。いわゆる桂は剣の修行によって、修羅場を察知し事前に回避すること、また何かあったさいには俊敏に逃げる術を得たのだ。

攘夷派と新撰組の死闘で歴史上名高い池田屋の変においても、本来なら桂はその場にいるはずであった。が、一度は池田屋に足を運んだ桂は、人の集まりが悪いことから席をはずし、私用にでかける。その外出中に新撰組が乗り込み、攘夷派のほぼ全員が捕殺されてしまう。

また蛤御門の変により朝敵となった長州藩には、幕府による厳しい残党狩りがあった。首謀者のひとりとして見られていた桂も、京都にて新撰組に捕らえられてしまう。しかし腹痛を訴え便所をつかわして欲しいと頼みながら、そのまま汲み取り口から逃げてしまった。
まさにギリギリのところで危機を回避し、事あれば俊敏に対処する。剣豪・桂ならではのエピソードだ。

維新後、桂は自分の思い描いていた日本の理想と現実のギャップに苦しみながら、精神的な失調をきたし、西郷隆盛が叛旗を翻した西南の役の最中に永眠する。高杉晋作のようなきらめきはないが、その対極として日本史上に名を残した桂小五郎。いまなおそのファンは多い。

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