戦国時代の領民は、百姓も兵士として働きました。年貢は納めなくてはいけない、合戦では命を懸けなくてはいけない。このような状況下、なぜ北条氏康は歴史に残るほど領民に慕われたのでしょうか。危機的な不況のいま、彼に学ぶところがあるように思います。
表は文、裏は武の人……
東嶺智旺という僧が、相模の虎と言われた戦国時代の名将、北条氏康についてこう評しました。「氏康は、表は文、裏は武の人で、治世清くして遠近みな服す。当代無双の真の覇王」と。
この一文を思い出したのは、このサイトを運営しているベンチャー・リンク社が発行している『月刊ベンチャー・リンク』11月号の巻頭インタビューを読んだのがきっかけです。靴下のリーディングカンパニー「タビオ」の創業者である越智直正会長の6ページにわたる記事でした。70歳を超える越智会長は、15歳のとき靴下問屋に丁稚に入って以来、靴下一筋。1968年に独立、国内はもとよりイギリスやフランスにも靴下専門店を出店し、同社を靴下トップ企業に育てあげた激烈な経営者です(詳しくは、同誌を参照いただきたい)。
その越智会長の笑っている写真がトップページにあり、厳しい商売の世界を勝ち抜いてきた般若のような顔かと思いきや、やわらかな、まるで菩薩のような清々しい笑顔。写真とはいえ厳しい武を感じさせない様から、「表は文、裏は武の人で、治世清くして遠近みな服す。当代無双の真の覇王」の言葉を唐突に思い出したというわけです。
それで、本題の北条氏康(1515-1570)です。武田信玄、上杉謙信、今川義元などとの激しい戦を繰り広げ、関八州を平定した戦国大名のひとりです。三十六度の戦に出陣し、一度も負けたことがないという無双の顔とともに、歴史上大変有名なのが民生家としての手腕です。いまなら名経営者間違いなしです。
社員の攻めの姿勢を担保する要素とは
天文19年(1550年)4月に実施された税制改革では、それまで不定期の徴収で泣かされていた農民に対し、貫高の6%の懸銭を納めさせることにより納税を均質化し結果として負担を軽減させました。同時に、税は直接北条氏に納められ、中間搾取がなくなったことで国人等の支配力が低下し北条氏の権力はより大きなものとなりました。凶作や飢饉の年には減税や年貢の免除、反銭や棟別銭を始め国役までの免除すら行なったといいます。
明日の命すら保障のない戦いの時代、勝てば官軍、負ければ即人生おしまいです。隣国は虎視眈々と常に自分の領土を狙っています。しかも、自分は強大な武力を持った絶対権力者です。少しばかり余分に利益を自分の蔵に入れたからといって誰も文句はいえません。そんな状況で減税なんてできますか?
会社であれば、創業者であるオーナー社長が、来年のことさえわからない厳しい不況下、かつ激烈な競争をしているときに社員の給料を上げたり、将来の給与を保証したりするようなものでしょう。なかなかできないことと思います。ほとんどは逆ですね。
景気が悪くなったりすれば給料は下がります。普通の現象です。氏康は、そういうときのために備蓄していたのでしょうけれど、内部留保が多額にある大企業もやはり下げているのが事実です。
よく語られますが、氏康の死が小田原の城下に伝えられると領民は皆泣き崩れ、その死を惜しんだといわれます。領民たちは年貢を納めたくて、労働をしたくてしているわけではなかったでしょう。家族を残して殺し合いの合戦にも行きたくなかったに違いありません。減税したとはいえ、領主が搾取していることにはかわりないのです。これは現在も同じ労働者の心理でしょう。
それでも、氏康がこれほど領民から慕われていたのは、税目や官僚機構の整理により領民が納得する形で無駄な負担を減らす経営を実践し、隣国からの攻撃はもちろんのこと、上記のように不作や災害からも領民とその家族を守ったからではないでしょうか。勝海舟によれば、後年、徳川家康が小田原を統治することになった際には、住民はいつまでも北条氏を慕って実にやりにくかったといいます。
会社経営を考えるとき、守りが先にたって攻めない経営などありえません。会社がビジネスに取り組むときには常に「攻撃こそ最大の防御」でしょう。しかし、組織の構成員としての社員と家族を守ることが社員の攻めの姿勢を担保する要素であることは、北条氏康とその領民の歴史が物語っているといえるのではないでしょうか。
取材・文/キャトル・バン