「いくさに強い家来」とは?

戦国末期に活躍した名将、加藤嘉明。彼がいう「いくさに強い家来」とはどういうものなのだろうか?

豪傑は、自分の家来に欲しくはない

戦国末期に加藤嘉明という武将がいた。豊臣秀吉によって見出され、秀吉天下統一の道標となった賤ヶ岳の戦いでは七本槍のひとりとして活躍した。その後、四国松山や会津の大名となった、名将である。

その嘉明が晩年、家臣から「どういう家来がいくさに強いか」と尋ねられたことがあるという。当然、強いという話になれば天下無双の豪傑であろうとの印象があるのだが、嘉明の答は違っていた。

「いくさに強いとはそういうものではない」と言葉をはじめ、こう続ける。
「勇猛を自慢とする豪傑などは、いざというときにどれだけ役に立つかわからない。自分の名誉ばかりを欲しがり、華やかな場面では、たしかに勇猛ぶりをみせるかもしれない。しかし地味な場所では身を惜しむかもしれないし、場合によっては逃げるかもしれない。
いくさなどはさまざまなシーンがあり、本当に華やかなときはほんのわずかだ。自分の見せ場だけを考えている豪傑などは、少なくとも自分の家来に欲しくはない」

そのうえで、嘉明は、「いくさの場、戦場で本当に必要なのはまじめな人間だ」という。「たとえ力がなくとも責任感が強く、退くなといわれれば、骨になっても退かない者が多いほど、いくさは強いのだ」と。

まさにこの言葉は、現在の私たちのビジネス、さらには人生という戦場においても通じるものがある。たしかに自らの名誉に固執し、地味な作業を厭う人間よりも、まじめで責任感がある人間のほうが信頼がおけるし、かつ計算が立つ。戦場における勝利とは、その計算の積み重ねのうえで成立するものであろう。

戦略的な意味が理解できる人間が信頼

同様なことが日露戦争であった。日本軍が敗戦寸前にまで追い込まれた黒溝台の戦いのことだ。

黒溝台の戦いとは日本軍の左翼に位置する秋山好古少将率いる歩兵、砲兵、騎兵の8000名に対し、ロシア軍が10万人の兵力をもって大攻勢をかけた会戦のことをいう。慢性的に兵力が不足していた日本軍は、40キロメートルという長大な陣地を1万人にも満たない人数で守備していた。そこへロシア軍の来襲である。

予備部隊をもたない日本軍は、もし秋山の部隊が破れれば、ダム決壊後の洪水のような勢いでロシア軍が日本軍の背後に回り込み、日本全軍を一気に撃滅してしまうおそれがある。その戦略的な意味を知っていた秋山は、ロシア軍のいちばん圧力がかかる地点に豊辺新作大佐の部隊を配した。

豊辺大佐は東北の出身。自分の部隊のおかれた戦略的な意味が理解でき、かつその場でロシア軍の進軍を食い止めろとの命令を受ければ、ひたすらにその任をまっとうするという愚直さがあった。秋山がもっとも信頼を寄せる部下だ。

会戦は、幾たびかの全滅の危機に陥りながらも、救援に駆けつけた味方の奮闘、さらにはロシア軍はその内部の軋轢により、かろうじて日本軍を押し返すのみで、日本軍は勝利をおさめる。4日間にわたる激闘であったが、豊辺大佐の部隊はその間、嵐のようなロシア軍の攻撃に耐えつづけ、結果一度もロシア軍を自軍より先に通すことはなかった。

まさに自らの立場を悟った責任感のある愚直な豊辺大佐とその部隊が、日本軍を支え、しいては日露戦争の勝利の一端を担った。そこには与えられた役割を、ただそつなくこなすという管理者的な発想は微塵もないことを明記しておくべきだろう。

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