幕末の剣豪と日露戦争屈指の名参謀の共通点

剣豪と名参謀が問い掛ける物事の原理原則とはなにか?
かたや千葉周作、かたや秋山真之。幕末の剣豪と、日露戦争屈指の名参謀の共通点は、物事を分解し、原理原則を導き出し再構築することであった。それゆえにその名声が後世にまで語り継がれるのである。

門下3000人の北辰一刀流

千葉周作という剣豪がいた。江戸時代の寛政年間から安政年間にかけて、北辰一刀流という剣術の流儀を創始した傑物である。50代以降の方には、「赤胴鈴之助」の師匠といえばわかりやすいかもしれない。この北辰一刀流の門下からは、清河八郎や坂本龍馬などの幕末の志士がキラ星のごとく登場したことで知られる。

神田お玉ケ池にあった周作の道場は、「他の道場で5年かかるところを、3年で上達できる」と評判を呼び大盛況。周作の弟・定吉が経営する道場(坂本龍馬はこちらの道場で修行をした)とあわせて門下が3000人とも5000人といわれ、当時にして江戸三大道場の一角に上げられていた。

なぜ千葉道場は上達が早いのか。それは創始者、周作が天性の合理主義者であったことに起因する。当時は木刀を使い、型を学ぶ剣術から、防具をつけ、竹刀を用いた撃剣(いわゆるいまでいう剣道)が主流となってきた頃、周作も、撃剣をいち早く取り入れた中西一刀流で学び、免許皆伝に至る。型を学ぶだけではなく、より実践に近い形での修行はそれまでよりも数段早いスピードでの上達を促すとされていた。

神聖視の剣術技を68手に再構築

そのうえで周作の合理主義である。周作は、それまで神聖視されていた剣術の型を分解し、原理を探り出し、自分で再構築してしまった。それを周作自身が大好きであった相撲になぞらえ、68手にまとめたのだ。

それまでは「型」という言葉で形容されていた剣術の技が、「手」というきわめて現実的なさらにいえば力学的な言葉に変わった。それだけでもわかりやすい。さらに従来から神聖視されていた型を、平易な言葉に置き換えることにより、剣術にあった神秘のベールをぬぐいさったのである。

こんなことがあった。ひとりの弟子より「地摺りの星眼という特別な構えがあるというが、それはどのようなものか」と質問された周作は「そんなものはない。それはただの下段の構えだ」と言下に否定する。下段の構えに誇大な名前をつけ呼んでいただけだというのだ。
もちろん周作の師匠筋からその指導法はとがめられ、その後破門、北辰一刀流の創始となっていく。合理的な思考が古い体制に嫌われるのは、いつの世でも同じ方程式だ。

屈指の名参謀も原理原則に導き出す

じつは日露戦争時に海軍の名参謀として名を馳せ、東郷平八郎連合艦隊司令長官にして「知謀湧くが如し」と感嘆された秋山真之も、物事を分解し、原理原則を導き出し、実践に生かしたひとりである。

真之は、ロシア・バルチック艦隊を日本海に迎えるさい、7段構えの作戦を立案していたという。その発想の元になったのは、戦国の世を中心に瀬戸内海で暴れまわった村上水軍の戦書であった。彼はその戦法の原理を学び、日本海海戦に生かしたのである。

その淵源は、海軍兵学校時代にも見られ、真之は17期生の首席として卒業する。さして勉強をしたとも思えぬ真之の偉業に後輩は「何故トップの成績が取れるのか」と聞く。それに対し真之は「過去の試験問題を徹底的に参考にすることと、教官のクセを見抜くことだ。また必要な部分は何回も説明することから試験問題を推測できる」と答えたという。

またワシントンの日本大使館に駐在したさいも、アメリカ屈指の戦史家のもとに通い、自らの戦術思想を深めていった。それは海戦に限らず、陸戦の歴史にもおよび、古今東西の戦史から戦いの原理をつかもうとしていたという。

千葉周作にしても、秋山真之にしても、目の前にある現象だけにとらわれず、何が本質なのか、どれが原理原則なのかを見抜き、応用していった。目の前の事象がたとえどんな状況であろうとも、その深層に秘められた原理を知ったときには、物事は単純化され、解決の糸口が見えてくるに違いない。何が本質なのかを見抜く目を養いたい。

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