自らの過信を戒める「名刺で仕事をするな!」

週刊朝日の名編集長であった扇谷正造氏の名著に「諸君! 名刺で仕事をするな」がある。
扇谷氏の講演原稿やエッセイなどをまとめたものだが、その内容は経営者のみならずサラリーマンにとっても興味深いものだ。

右手の懐炉にみる名医のありかた

本書内では、ガンの権威の医者のエピソードが紹介されている。この医者は寒い季節になると、ポケットに懐炉を入れておいて、いつも右手を入れていたという。なぜか?

この医者が勤務する病院は近代的だが、ひとたび中に入ると、沈痛な雰囲気に満ちている。多くの外来患者は、ガンになにかしらの関わりがあったり、疑いがあって来ているわけで、生死に関わる緊張感が病院内をおおっているのである。

そのような患者を診察する場合、件の医者、きわめてゆったりとした声で、
「どれどれ、どこが悪いんですか。どれ、脈を」
といって、右手をポケットから取り出して、脈を診た。懐炉で温められたやわらかな右手で、脈を取られると、ともすれば緊張感に張りつめていた患者の気持ちがスーと静まったという。

物理的に温かい、冷たいということもあるだろうが、それ以上に医者の気持ち、思いやりが伝わり、患者は安心するのではないか。そうした信頼感が大切ではないか?と問いかけつつ、名医と凡医の違いはここにあると思った、と扇谷氏は締めくくっている。相手の立場に立った、ちょっとした心遣いに営業や経営のヒントが隠されているように思える。

名刺にある会社の信用と肩書に頭を下げる

それはまた肩書主義を排するということにつながるだろう。まさに本書のタイトルである「名刺で仕事をするな」とは、その肩書主義を排せということに他ならないのだ。

名刺を見て、人が自分を丁重に扱ってくれるのは、自分個人の力ではない。その名刺に書かれた肩書と会社の信用によって丁重に扱ってくれる。会社の信用と実力を尊重し、頭を下げるのであって、決して自分に下げているのではないのだ。

現在は年商30億円を超え、上場を果たしたある会社経営者も同様のことをいっている。大手スーパーのバイヤーとして、出入りしている業者の生殺与奪権を有していたその経営者は、いよいよ自分の力を試したくなり、独立をする。

そのとたんにいままで頭を下げていた出入り業者たちはその経営者に見向きもしなくなり、またたくまに関係が途絶えた。そのとき経営者自身自らの勘違いに気づいたという。「結局は会社の力によって、自分たちの人間関係は作られていたのだ」と。彼はまさに裸一貫、一から信用を築きあげることによって、上場企業にまで這いあがっていったのである。

名刺にある肩書と会社の信用によって築き上げられた人間関係。その違いがいつしかわからなくなると、人間としての姿勢が狂ってくる。大切なことは、懐炉で温められた右手を差しのべられるかどうか。その心に人は集まり、逆に何かあったときに手を差しのべてくれることを、忘れてはならない。

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