斎藤道三はふたりいた!? 次々とくつがえる歴史の定説

数々のすぐれた歴史小説を上梓し、多くのファンを獲得している宮本昌孝氏に『ふたり道三』という作品がある。道三とはいわずと知れた、戦国時代初期に油商人から身を起こし、守護・土岐氏を追いやり、美濃一国を手中におさめた斎藤道三のことだ。

じつは親子二代の『国盗り物語』

この道三、自分の娘と織田信長が婚姻関係を結ぶさいに美濃を訪れた信長を見、「わが家臣はいずれの日にか信長の軍門に降るだろう」とつぶやいたなど、そのエピソードには枚挙の暇がない。そして私たちが知るそれら斎藤道三のエピソードというのは、かの司馬遼太郎が著わした『国盗り物語』によって刷り込まれたものだ。

そこで『ふたり道三』である。じつは美濃を平定した斎藤道三とはひとりではなく、親子二代によって成し遂げられたという説にもとづき、史実交々なダイナミックなストーリー展開をする快作だ。(ぜひご一読ください)。

ふたりの道三がいたとは、ともすれば小説上のフィクションのようだがそうではない。いまや歴史的な定説になっているのだ。事実、文庫版『ふたり道三』の解説部分にはこう記されている。

「1962年からはじまった『岐阜県史』編纂の過程で、道三没後4年ごろに書かれた『六角承偵条書写』という古文書が評価され、道三の美濃盗りそのものが、実の父子二代で行なわれてきたことがわかってきた。そして道三ふたり説は、現在の歴史研究では定説となっているようだ」

司馬遼太郎の『国盗り物語』は、1963年から1966年にかけて「サンデー毎日」で連載された。当然のことながら、父子二代説は巷間に問われておらず、ただひとりの道三をもって描かれている。そしてここで作られたイメージが斎藤道三のすべてであったのである。いま斎藤道三がふたりいたと定説が変わったことを司馬遼太郎が知れば、どのように思うであろうか。

稲作は縄文時代から存在した!

じつはこの手の歴史的常識がその後の研究や発見により、くつがえっている例は多い。たとえば稲作だ。我々が学んだ日本史の教科書では、稲作は弥生時代からはじまったとされている。しかし近年、熊本県の大矢遺跡から出土した縄文時代中期の土器に稲もみの圧痕があることが確認された。

これは全国最古のもので、縄文中期に稲作があったことを示す貴重な資料となっている。その他の遺跡から出土した縄文後期以降の土器からも稲もみやコクゾウムシなどの圧痕が見つけられており、縄文中期以降に陸稲を含む稲作が存在したことはほぼ確実視されているということだ。

また室町幕府を開いた足利尊氏の像としてよく知られている騎馬武者の絵がある。たぶん誰でも一度や二度は見たことのある画像なのだが、近年専門家の研究により各種の学説が発表され、あの像は足利家の家臣、たとえば高師直であろうなどといわれている。以来、足利尊氏像として扱われることもなくなってきた。
もともとはあの画は「伝足利尊氏像」と呼ばれており、日本史の教科書にも「伝」と注意書きはあるものの、足利尊氏として紹介されていたいわくつきの作品であった。

また士農工商との身分制度に絡めとられていたといわれる江戸時代だが、そのじつ隠居した商人が「武士にでもなろうか」と株を買っていたであるとか(坂本竜馬の実家もそうだ)、武士も腰に下げた刀を取っ払い町人になったという話もある。思っている以上、職業選択の自由があったのだ。

歴史の見方というものはその時々によって大きな変化を遂げる。だからこそ、一方向からだけではなく360°にわたっての検証・照射が必要となるのだ。やはり歴史はおもしろい。

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