高杉晋作が実現した「草莽堀起(そうもうくっき)」という思想

1857(安政4)年、長州藩士でもある思想家・吉田松陰が、八畳一間という小さな私塾を開校した。世に名高い「松下村塾」である。それは鎖国から開国へと、日本中が混乱しているさなかのことであった。

松陰の根底にあった「草莽堀起」

当時松陰は弱冠27歳。しかしかの地から明治維新という日本の「革命」の原動力となった人材を輩出したことは、あまりにも有名な話だ。久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義など、幕末から明治を彩ったオールスターが卒業生として名を連ねている。

松下村塾は塾といっても、物置小屋を改造して造った質素なもの。たった8畳の講義室で、松陰は門下生たちと寝食をともにし、彼らを薫陶していった。その根底にあった思想が、「草莽堀起(そうもうくっき)」だ。

たとえば門下生である入江杉蔵にあてた手紙のなかには「是非事をやるには草莽でなければ人物なし(必ず事をやるには民衆のなかでなければ人物はいない)」と記されている。さらには別の門人には「いまの幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草葬堀起の人を望む外頼みなし(今の幕府も諸侯も、もはや酔っぱらいも同然だから救いようがない。民衆のなかから立ち上がる人を望む以外に頼みはない)」と書き送った。

まさに「民衆よ立ち上がれ」が、松陰の合言葉であったのだ。だがご存知のとおりに志半ばにして松陰は牢獄に散った。安政の大獄により1859(安政5)年11月に30歳で処刑されてしまったのだ。師を失った塾は廃止。開塾期間は、実質3年にも満たなかったが、歴史に残した足跡はあまりにも大きい。

奇兵隊設立の高杉晋作と官僚の法王・山県有朋

松陰は処刑の前日に、自らの理想を託す門下生たちに長文の遺言を書きとどめた。その名は「留魂録」。そのなかにこうある。

「今日の事、同志の諸士、戦敗の餘、傷残の同士を問訊する如くすべし(今日のことについては、同志の諸士よ、<たとえば>戦に敗れたあとに、傷ついて残った同志にその様子を問いただすように、厳しくその経緯を追究し、後事に備えてほしい)」

何が失敗だったのか。だれに責任があるのか。どうすれば、よかったのか。すべてを明らかにし、残すのだ。次の戦いには、それらに十分注意し、再び失敗せぬように戦え、そして勝て。死を目前にしてなお、自らの志への執念が感じられる。

「一敗乃ち挫折する、豈(あに)勇士の事ならんや。切に嘱す、切に嘱す(一度失敗したからといって、たちまち挫折してしまうようでは、勇士とはいえないではないか。諸君よ、切に頼む、切に頼むぞ)」

この言葉に奮起したのが、高杉晋作だ。彼は、松陰の死後、身分を問わない軍事部隊として「奇兵隊」を構想し実現した。薩長相並ぶ官軍の最強部隊として、奇兵隊は活躍する。まさに師・松陰の思想である「草莽堀起」を結実した格好となった。

一方で同じ塾卒業生である山県有朋は、維新後に明治政府官僚の法王として君臨し、民衆を睥睨していった。この高杉と山県の差異は、明治という勃興期には松陰の思想は通用しなかったのという現われか、はたまた弟子として師の思想を肉化する作業の濃淡であったのか。師弟という人間関係を考えるに、興味深い。

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