歴史に登場する3つの人物像

幕末史を彩る英雄、西郷隆盛。しかし彼の存在をはなから認めない人物もいた。歴史回天時に登場する人物像は、段階を追って変化してくる。西郷は、維新は為しえたがそれ以降は不必要な人物像だった…。

西郷隆盛を空気と見た大村益次郎

早稲田大学の創立者、大隈重信、さらには明治陸軍の祖、大村益次郎などは、維新第一の功労者、西郷隆盛を「空気のような存在」として、見ていなかったという。大村に限っていえば、「いずれ足利尊氏ごとくの者が九州から攻め上がってくる」と喝破し、自身が育てた日本陸軍のさまざまな施設を大阪に作った。

言うにおよばず、「足利尊氏ごとくの者」とは西郷隆盛を指し、大村が暗殺に倒れた8年後、明治10年に西南の役が起きている。大村の生前の采配はことごとくあたり、大阪から武器弾薬が瀬戸内海をたどって運ばれ、争乱は政府軍の勝利に終わる。

先にあげた大隈重信は、薩摩藩・長州藩を中心とする官軍と旧幕軍が相打つ維新直後、そこで狂奔する西郷隆盛をはじめとする人間を「無用の存在」と見切っていた。唯一、彼が稀代の英雄と見たのが大村益次郎である。大隈が官軍を代表して、横浜港に浮かぶ鉄軍艦を海外から購入するため25万両もの大金を背負い江戸にきたとき、はじめて大村と会う。そこで「これこそ英雄」と感服し、もってきた公金すべてを軍費不足で悩む大村に差し出してしまった。

一方大村は、とくに薩摩藩閥の軽輩から神格化すらされていた西郷隆盛を徹底的に無視する。西郷が握っていた東征軍の指揮権を奪い、その後は存在すらも認めなかった。その西郷蔑視が、その後の大村非業の死に関係してくるのである。

と、堂々めぐり風に書いてきたが、要は大隈・大村という自らを技術者と規定する合理主義者、実用主義者にすれば、倒幕という修羅場を乗り越えてきた革命推進者たちは空理空論を唱える存在でしかなかったのである。

歴史の回天時に登場する3つのタイプ

司馬遼太郎によれば、歴史の回天にはその時期ごとに登場する人物像があるという。思想家、革命家、技術家である。幕末の長州藩を例にとれば、最初に思想家として吉田松陰が世に現われ、その思想を体現すべく高杉晋作、桂小五郎などの革命家が登場してきた。

しかし一旦革命が成就すれば、次に必要とされるのは、革命を合理的に仕上げる技術家たちなのだ。それこそが軍制を改革した大村益次郎であり、より現実的な政治の分野で功をなした伊藤博文らとなる。

革命家として名を知らしめた桂小五郎は、維新後は「こんなはずではなかった」とつねに現実に不満をもち、鬱症状のまま早死にする。西郷においても、幕末往事のすごみのある政治的手腕は影をひそめ、自らの自我を解放しようとする思想家におさまった感がある。少なくとも国家の骨格は、彼ら理想を追い求める革命家ではなく、より現実的な技術者、官僚によって作りあげられていったのである。

さて、いまのニッポンにおいて必要とされている人物像はどのタイプか?さらには、あなた自身が当てはまるタイプは何か? そんなことを考えながら、歴史小説を手にしてみると、また違った風景が目の前に広がってくるに違いない。

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