鉄の規律が求められる軍隊組織において、命令無視ともなれば死をともなう重罪に処せられる。しかしその命令を無視することによって日本が救われたことがあった。
命令を無視し、敵戦艦を追撃
時は1905年5月27日。日本近代史の一大エポックメーキングとなった日本海海戦の火蓋が切られた。かたや洋々たるロシア・バルチック艦隊。迎えるは東郷平八郎率いる連合艦隊である。
じつはこの海戦、戦史に名高いT字戦法、さらには徹底して鍛えあげられた艦砲の精度などにより、戦いの行方は開始30分で決定してしまった。バルチック艦 隊旗艦スワロフは、開始早々に舵をやられてしまう。艦橋部分に被弾した一撃が操舵手の命を奪い、その瞬間舵を大きく取り舵へととってしまったのだ。
当然動きが変になり、スワロフは一瞬北へ回航するかのように見えた。連合艦隊旗艦、三笠にいた東郷は、その処置として、艦隊に180度一斉回頭を命じる。北へ転じるロシア艦隊の頭を抑えようとしたのだ。
しかし方向を失ったスワロフは、ただ海上にて円を描くばかり。しかも東郷艦隊は一斉回頭したために、スワロフから離れはじめている。その機に乗じて残存するバルチック艦隊は、海戦域を抜け出し一気にウラジオストックに向かおうとした。
もしここで東郷率いる連合艦隊が、命令一下、一斉回頭をしてしまっていたら、バルチック艦隊はものの見事に逃げおおせ、日露戦争の結果は違ったものになっ ていただろう。しかし、スワロフの動きを故障だと正しく判断した者が2人だけいた。連合艦隊第2艦隊の旗艦、出雲の艦橋にいた司令官、上村中将と参謀長、 佐藤大佐である。
上村らは、一瞬迷ったものの東郷の一斉回頭の命令を結果的には無視し、逃げようとするバルチック艦隊の追跡を開始した。ロシアの戦艦に対し、巡洋艦のみの 陣容であったが、執拗に砲撃を加えた。しかもそこへ、バルチック艦隊から離れ、艦隊ダンスを興ずることとなった東郷以下の三笠がロシア艦隊と遭遇。バル チック艦隊の命運は尽きたのである。
本質を捉えた臨機応変な決断
この上村中将率いる第2艦隊には、悲運の影がつきまとっていた。日露開戦直後、上村にロシア・ウラジオストックを母港とするウラジオ艦隊撃破の命がくだる。同艦隊の動静如何では、大陸への輸送に支障をきたすためだ。
しかし上村は、濃霧に阻まれためにウラジオ艦隊を補足できず、日本は運搬船「金州丸」「常陸丸」「佐渡丸」が次々と撃沈され、多数の陸兵を失うことにな る。しかもウラジオ艦隊は、津軽海峡を通過し、伊豆南岸にまで現われ商船数隻を撃沈する。
国民の怒りは頂点に達し、「上村艦隊は何をやっているのか」と、上村の留守宅は投石を受ける始末。議会でも代議士が「濃霧濃霧といいわけをするが、さかさに読めば無能なり。上村艦隊は無能の一語につきる」と演説し、揶揄した。
結果としてウラジオ艦隊は、こののち上村以下第2艦隊に完膚なきまでに叩きのめされるのだが、もしここで上村が卑屈になっていたら、日本海海戦での独立独行の追撃戦はありえなかっただろう。官僚的にただ命令に従い、責任回避の行動をとったに違いない。
日本海海戦が、日露戦争の雌雄はおろか日本の行く末をも決める大一番であるとの戦略的意味を理解し、かつ敵を叩くという本質を捉えた臨機応変な決断が勝敗を決したのだ。よくよくわが身に置き換えて考えたい話である。