心の機微に触れた武田信玄の人材登用

武田信玄といえば、いわずと知れた戦国の名武将。かの信長も政略結婚などの裏技を駆使し、信玄との正面衝突を回避した。その強さは、彼の人材登用の巧みさに起因する。

実力本位で人を集め、配置した信玄

信玄が人材登用の名人であったことが、戦国最強といわれた武田軍団の基礎をなしている。彼はあくまでも実力本位で人を集め、配置した。正当な実力を評価された部下たちは、それぞれの持ち場でその能力をいかんなく発揮し、活躍した。それが武田勢の強さの秘密であったのだ。

また次代を担う若い世代の育成も抜かりなかった。有力な臣下の息子たちが集まった小姓組をはじめ信玄の周りに集まる若い武士たちに対し、信玄は武将としてのあり方や戦術などを教え、徹底した薫陶・育成を行なったというのだ。信玄の手駒となって活躍した武将の多くは、こうした彼自身の手作りによって生まれたものだった。

信玄の老臣に萩原常陸守といわれた智将がいた。彼は幼き頃の信玄を見、その非凡な才能を見抜いた。そのときから徹底した信玄への教育がはじまった。折に触れ合戦の話を伝え、あるべき将としての姿を語った。常陸守は信玄が10代のときに亡くなるが、その信玄に与えた影響は計り知れないものがあったようだ。

こうした自身の経験もあり、信玄も同様に、さまざまな機会を捉え、若い武将の育成にあたっていったのだという。

ビジネスの現場においても、同じことがいえるのではないだろうか。どんな組織においてもそのカギを握るのは、やはり人材である。しかも偶発的ではなく、いわゆる陸続と人材が輩出されることを理想とする。そのために若き世代には、事あるごとに人間的な触れ合いを通し、社会人として、また企業の一員として育成をはかっていくことが肝要となる。

心の機微を知り尽くした人間学が根底に

信玄がかねてから目をかけ、訓練してきたひとりに、多田久蔵がいた。彼を足軽大将に取り立てたとき、信玄は次のように戒めたという。
「今後はひとり働きは無用である。足軽を預かっていながらひとり善がりの行動は、足軽が行動の規範を失い、ひいては全軍の勝利がおぼつかなくなる」と。

戦いのリーダーが、自らの勲功や名誉のために勝手に戦場に臨めば、従うものは何をしていいかわからなくなり、勝利の要諦ともなる団結を乱すこととなる。それは全体の敗北におのずとつながる。リーダーは、まずは全体観に立つことが必要と信玄は説いたのだ。久蔵の性格を知りぬいての信玄の言葉である。

また武田四天王のひとりに板垣信形がいる。歴戦の勇将として知られた信形は、ある合戦で周囲が止めるのも聞かず、無謀に兵を進め、結局は敵にはめられ多くの犠牲をだしたことがあった。当然周囲はその無謀さを責め、あるものは讒言する。だが信玄は信形を呼び出し、こういった。「敵の欺きにあいながら、大敗を免れたのはさすが信形である。周りの人間のたわごとなどに耳を貸すな」と。

厳しい裁きを覚悟しただけに、信玄の琴線に触れる言葉に信形は深く感銘を受ける。その後この信玄の思いに答えようと、信形は一身をなげうって奮闘したという。

人間が失敗したときに責めることはたやすい。しかし責めることで人間が失敗から立ち直ることもあまりないだろう。思わぬ失敗をしたときこそ、包容し守り抜くことが大切なのである。信玄の人材登用とは、心の機微を知り尽くした彼自身の人間学によって支えられていたのである。

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