「ケンペルと徳川綱吉」という本がある。・ケンペルとは、オランダ・東インド会社に外科医として採用され、1690(元禄3)年に来日。日本滞在中には2回も綱吉に拝謁し、「(綱吉は)偉大で卓越した君主である」と最大級の評価をしている。
野犬化を防ぐ先見の政策が憐れみの令
生類憐れみの令とは、とくに犬を殺傷したものは厳罰に処すという悪法であるというのが一般的な見方だ。藤沢周平の用心棒シリーズの最終巻も、この悪法により処刑された武士の娘が全体のストーリーの伏線となっている。悪法でなければ成り立たない設定である。
ただ生類憐れみの令とは、決まった法令があったわけでなく、たくさんの法令の総称であったらしい。そのうえで「ケンペルと徳川綱吉」の 筆者、ボダルト・ベイリーは、生類憐れみの令と総称される法令が数多作られたのは、法令をなきものにしようとする重臣と綱吉との権力闘争であったとする。 そう聞くだけでも、いままでの悪法というイメージが崩れてはこないか。
ベイリーがいうに、本来生類憐れみの令とは、大名家などで飼われていた鷹狩り用の犬が逃げ出し、野犬化。当時世界屈指の都市であった江戸で大きな社会問題となったため、綱吉は犬とその飼い主を登録させようとしたことにはじまるのだという。
ちなみにこの発想自体が世界史規模でも画期的であるのは、たとえばアメリカ・ニューヨークで犬の登録を義務づけられたのは1894年のことであり、綱吉のそれより200年以上もあとのこと。世界に先駆けての試みであったのだ。
この手の規則は、面倒くさがって手を抜くのが役人の常。本来は将軍の名代として腕をふるうべき老中ですら、「自分の犬が逃げ出して見つからない場合は、他の犬を連れてきて代わりに登録してもよい」という裁定をするぐらい骨抜きにしてしまった。
その後も抵抗する重臣たちは自分たちの勝手な細則をつけて生類憐れみの令を異様なものにつくりあげていった。後世、綱吉が愚かな将軍だといわれていったのには、この権力闘争の結果であるらしい。
武士階級の横暴を封じようとした!?
そのうえでベイリーは、綱吉の目的は、犬ですら人間と同格に扱うことにより、人間に対する武士の特権的横暴を封じることにあったと記している。
武士は刀を持って庶民の上に立つのではなく、役人として庶民に奉仕する立場であると位置づけようとした。いってみれば犬というのは方便 であったというのだ。この法令が悪法とされるのは、その武士の特権を否定されることに重臣や役人が反発して、綱吉の命令を歪曲し続けた結果であったとい う。
この論が正しければ将軍という独裁者として、人の心を法律によって醸成しようとしたということになるのだろうが、当時もまた後世も綱吉の志を理解せず、結局悪法、暴君というイメージだけが植えつけられてしまったわけだ。
「心は金で買える」という風潮がある昨今、その風潮を助長させた現政権の評価はいかばかりのものか。それを決めるのは後世の人々であり、歴史である。