歴史に名を残した退き際、散り際

「人間、退き際が大切」、「奴は往生際が悪い」など、出処進退に対する見方は厳しい。石田三成、西郷隆盛の最期は、ともすれば汚名となりがちであったが、その退き際、散り際は見事であった。

死ぬまでは大志に生きる

石田三成には、こんなエピソードがある。
関が原の合戦で西軍が敗れ去った後、西軍の多くの武将が自害した。しかし合戦の一方の旗頭であった三成は、戦場から離脱し山中に隠れる。結局はかくまってくれた村人に害がおよぶのを恐れ、東軍に下るのだが、退き際の可否をこの一点だけで見れば、最悪と思える。

事実、徳川家康配下の武将・本多正純は「(小早川秀秋など)諸将が裏切るという状況下で、軽々しく兵を挙げ、敗れても自害すらせず、捕らえられて生き恥をさらすとはなんたることだ」と痛烈に三成を批判する。

これに対して、三成はいう。
「敗れて腹を切るなどは葉武者のやること。(鎌倉幕府を開いた)源頼朝は石橋山の敗戦後、洞穴に身を隠した。その心がおまえにはわかるまい」
源頼朝はその旗上げとなる石橋山の合戦で敗れ敗走し、洞窟に身を隠していた。結局は敵将が見つけたものの見逃してくれ、後日再起を果たした。

三成は、この頼朝の故事を引きながら「死ぬまでの間は再起を望むことこそが真の武士である」と主張したのだ。そう考える三成にしてみれば、自害することこそが「逃げ」だったのに違いない。

不恰好だが見事な退き際

さらに三成が処刑される直前に、警護の者にのどが渇いたので水を所望したのに対し、「水はないが、干し柿がある。水の代わりに柿を食せ」と言われた。しかし三成は「干し柿は胆の毒なのでいらない」と答えたという。

警護の者は「首を切られ死んでいくものが、毒を心配してどうなる」と失笑したが、「大志をもつものは、最期の時まで命を惜しむものだ」と三成は泰然自若としていたとされる。生がある限り、自らの大志のために生き抜き、再起を図る。ここでも三成の生き様が見てとれる。

退くも地獄、生きるも地獄という状況下で、三成がとった行動の規範は、豊臣家の再興という大志にあった。自らの大志に殉じたその生き方は、たとえ不恰好とはいえ見事な退き際だったといえる。

担がれた神輿の上で見事に散る

明治10年に、鹿児島士族の不平不満が爆発し起こった西南の役。その中心にいたのは、明治維新の立役者であり、いまなお人気を誇る西郷隆盛だった。結果として西郷は自らの意志というよりも、彼を慕う士族たちに神輿を担がれたことになったが、その散り際は淡々としたものだった。

時の政府に反旗を翻した西郷軍は、熊本城を皮切りに南九州において、政府軍と激戦を繰り返す。武力、兵力ともに劣る西郷軍は、行き場所を失い、鹿児島市内城山に篭もり最後を迎える。

西郷軍300人あまり。対する政府軍は7万人にも及ぶ兵力で城山を囲んだ。戦いの趨勢は目に見えており、西郷軍にすれば、あとはいかに死するかということだけであった。

政府軍総攻撃の日、砲弾を避けるために掘られた洞穴に退避していた西郷隆盛は、自ら討って出る。雨あられと撃ちこまれる敵の銃弾の前に体をさらした隆盛は「もうここでよか」と発し、脇にいた盟友・別府晋介に介錯を頼んだという。鹿児島士族、政府軍のなかには、西郷の助命嘆願の動きがあったというが、本人が拒否。隆盛は、あえて自害に近い形で死を選んだ。

隆盛の晩期は、たんなる偶像と化したとの論も聞くが、担がれた神輿の上できれいに散って見せた様は、官賊なお慕う人間が多かったなかでこれもまた見事な散り際といえるだろう。

退き際、散り際のいちばんの敵は、未練。己の大志が叶わなかったならば、潔い出処進退、生き方をしていきたい。

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