徳川265年の歴史を開いた孫の教育を憂慮する一通の手紙

関ヶ原の合戦(1600年)を勝ち抜き、その3年後には征夷大将軍に任ぜられた徳川家康は、ご存知の通り江戸幕府開府後に駿河に戻り、二代将軍・秀忠を後見するいわゆる大御所政治(1605年)を行なっていく。

徳川十五代の礎となった家康の執念

それから時を経た1612年のこと、71歳となった家康は、二代将軍・秀忠の夫人、つまり息子の嫁にあてて長文の手紙をしたためたという。その内容は秀忠の子、国松の育て方について、こまごまと注意したものだった。なぜか。

秀忠夫人は、兄の竹千代(のちの三代将軍・家光)よりも、弟の国松を溺愛していた(このあたりのくだりは『春日局』で知られている)。このことについて家康は、じつは深く悩み憂慮していたというのだ。開府まもない徳川幕府にとって、後継者となる将軍の子息の育て方を誤ることは、致命的である。天下大乱の因ともなりかねない。

そこで家康は、子供を樹木にたとえて説く。木は、若木のうちに丹念に手入れをしておけば、まっすぐに伸び、立派な木に育つ。人間もまた同じだ。幼いうちから正しい教育をしておけば、長じてすぐれた人間と成長する。だが幼少の時にわがまま放題にさせてしまえば、悪いクセが残り、大人になってからでは曲がったクセは直せない。最後は「身を怨み天道を恨み人を恨み、後には頓て、心乱る」と指摘する。

不幸なことに、この家康の予言は的中した。国松は長じても、次第にわがままが募り、粗暴な振る舞いが目立った。ついには28歳で切腹を命ぜられ、一生を終えてしまうのだ。最初は小さな育て方の過ちであっても成長するにつれ、大きな人間的欠陥となり、悲惨な結末となってしまったのだ。

なによりもは家康が死の間際まで、幕府の盤石な基礎固めのために心を砕きに砕いていたという事実だ。後継となる孫の育て方にまで、細心の注意をはらうその姿の中に、徳川十五代の土台づくりの執念を垣間みる思いがする。

淀君への配慮を欠き豊臣家は滅亡

同様に後継者のありように苦心したのが、豊臣秀吉だ。一介の農民の出である秀吉は、一族はなく、譜代(代々同じ主家に仕えること)と呼べる家来もいなかった。自らの死を意識しはじめたとき、彼が頼ったのは家康以下五大老であった。しかもそれは嫡子・秀頼の後見の誓詞を差し出させたのである。もちろん秀吉亡き後、その誓詞は反故となってしまうのは関ヶ原の合戦で明らかだ。

問題はそのあと。成人した秀頼に対し、かつての臣下であり、その後征夷大将軍となった家康は幾度となく和解の手を差し伸べた。しかしことごとく母である淀君が拒否してしまう。結果大阪冬の陣、夏の陣にて豊臣家は滅んでしまった。

死の間際にいた秀吉が、ひと言でもいいから秀頼の教育、豊臣家のありようについて、淀君に申し送っていたらどうなっていたか。子飼いの家来であった加藤清正や福島正則に一筆でも書き送っていたらどうなっていたか。

創業者の一念、執念というものは、その後の一族の盛衰をも握っている。家康、秀吉の姿を見るにつけ、その存在はただ重い。

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