英雄・ナポレオンは部下の「指示待ち体質」に敗れた!

前々回の本稿でナポレオン軍の強さの秘密は、ナポレオン自身の類まれなる人心掌握術にあったと述べた。今回は、では何故そのナポレオン軍がワーテルローの戦いで敗れたのかを考えてみたい。

フランスの命運を賭けたワーテルローの戦い

1815年2月26日、流刑地・エルバ島から脱出したナポレオンはパリへ進軍。3月20日パリに入城し、再び皇帝となる。しかしフランス国境付近には、ナポレオンをなきものにしようとするウェリントン公率いるイギリス・オランダ・プロイセン(ドイツ)軍が迫っていた。ナポレオンは同盟軍を撃破するため6月、12万名を超える兵を率いてベルギーへ向かう。両軍の雌雄を決する戦いとなったのが、ワーテルローの戦いである。

ベルギーに布陣していたのはイギリス・オランダ連合軍の9万5000とプロイセン軍12万。6月16日には、前哨戦となるリニ―の戦いにおいてナポレオンはプロイセン軍に死傷者1万6000の損害を与えたが、完全な撃滅はできなかった。だがナポレオンは、プロイセン軍が退却したと誤認し、グルーシー元帥に3万の別働隊を与え、プロイセン軍を追撃させた。

ナポレオン自身は7万2000の兵をもって、ワーテルローで6万8000のイギリス・オランダ連合軍と対峙する。午前11時に火蓋が切られたワーテルローの戦い。双方譲らず一進一退の攻防を繰り広げている最中に、なんとプロイセン軍3万の軍隊がワーテルローに現われる。彼らは退却はおろか、グルーシーの追撃をかわし、無傷で進軍してきたのだ。

ナポレオンは参謀にすぐに命じ、グルーシーに対して「ワーテルローに突入せよ」との伝令を飛ばす。しかしたったひとりの伝令しか出さなかったため、この命令はグルーシーの元に届くことはなかった。

一方グルーシーの司令部内でも、どこにいるかわからぬプロイセン軍を追うよりも、主戦場に駆けつけるべきだとの意見が出されていた。だがグルーシーは、決断ができない。それは、ナポレオンから「プロイセン軍を追撃せよ」との命令を受けていたからだ。

プロイセン軍の来援により人数が優ることとなった同盟軍は、ついにナポレオン軍に一斉攻撃を加える。ナポレオンの戦術ミスもあり、ナポレオン軍は総崩れに。ようやく決断をしたグルーシー元帥の部隊が到着した時には、戦いの趨勢は決まっていた。

「命じられなければ動けない、動かない」

ナポレオンはなぜ敗れたか? さまざまな分析はあるが、ひとつにはグルーシーに代表されるナポレオンの部下たちが、ナポレオンから「命じられなければ動けない、動かない」という指示待ちの体質になってしまっていたことが指摘されている。何年にもわたり英雄・ナポレオンに身をゆだねてきた結果、保身と事なかれ主義の硬直した組織になってしまったというのである。

ある将軍は、こう記している。
「ナポレオン補佐の将軍たちは、ナポレオン直接指揮のもとに2万5000の部隊を動かすときは優秀であるが、自分たち自身の着想で大軍を指揮するだけの力量はなかった」

ナポレオン軍の勝敗の鍵を握ったグルーシーは、他人の命令に従うことに慣れ、自分で決断できない人物だった。いたずらに命令を待つだけで、突入する時を逸し、勝てるチャンスを逃してしまったのだ。もしもグルーシーが、ナポレオンと同じ責任感に立って、決断し行動する勇気をもっていたなら、歴史は変わっていたに違いない。それは私たちの生活、またビジネスの現場でも同様なことがいえるであろう。

パリに逃げ帰ったナポレオンは、皇帝を退位。エルベ島脱出後の「百日天下」であった。その後セントヘレナ島へ流され、6年後に没している。

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