成功経営者インタビュー

株式会社サンワカンパニー 代表取締役社長 山根太郎氏 インタビュー 

本コーナーで掲載する経営者インタビューは、Podcast「社長に聞く!in WizBiz」で配信中の経営者インタビューを編集しています。今回、ご紹介する経営者は、山根 太郎氏(株式会社サンワカンパニー 代表取締役社長)です。(2021年7月14日 2021年7月21日 配信)

今回は「くらしを楽しく、美しく。」を経営理念に掲げる、株式会社サンワカンパニーの山根太郎社長にお越しいただきました。

スタイリッシュで高品質ながら低価格な商品展開を実現し、住宅設備機器、建築資材をBtoC決済できる唯一のビジネスモデルで、マザーズ上場をされている企業の社長様です。

山根氏は、大学卒業後、伊藤忠商事株式会社繊維カンパニーへご入社。上海駐在中、お父様が創業された株式会社サンワカンパニーの代表社員から「今の社長が経営を続けると、戻ってくる会社が無くなってしまいます……」と1通の手紙が届いたそうです。
お亡くなりになられたお父様の会社を守るため、同社に入社し、取締役会で社長退任の動議を出し、自身が代表取締役社長にご就任されました(当時、東証マザーズ最年少社長)。以降、数々の改革を起こし業績を向上させています。類まれな事業承継のエピソードから経営のヒントが得られます。ぜひインタビューをお聞きください。

新谷哲:今回の経営者インタビューは、株式会社サンワカンパニーの山根太郎社長です。まずは経歴のご紹介です。1983年、奈良県奈良市生まれ。関西学院大学経済学部を卒業後、2008年に伊藤忠商事株式会社繊維カンパニーへと入社。上海駐在などを経て、2014年4月には東証マザーズ上場企業である、株式会社サンワカンパニーに入社し、同年6月に代表取締役社長へとご就任されました。本日はよろしくお願いします。

山根太郎:よろしくお願いします。

新谷哲:最初の質問です。ご出身は奈良県とのことですが、小学校時代はどのようにお過ごしでしたか?

山根太郎:母が里帰り出産をして奈良で生まれたのですが、翌週からは兵庫県で育っています。実は私、幼少期に「川崎病」という原因不明の病気を患っていました。その後遺症で、100メートル以上走ってはいけないというドクターストップを受けていたのです。移動距離の短いスポーツや、色んなところに遊びに行くことは好きでしたが、マラソンや水泳の授業には参加することができず「あいつ、体弱いらしいよ」と言われることがとてもコンプレックスでした。当時は体も小さく、自信がないタイプでした。

新谷哲:今のお元気な姿からは想像もつきません。兵庫県ではどちらでお過ごしになられたのですか?

山根太郎:兵庫県尼崎市で幼少期を過ごした後、宝塚市に引っ越しをしました。

新谷哲:宝塚だと高級住宅街ですね!

山根太郎:閑静な住宅街でした。両親は、私がコンプレックスの向かう矛先を間違うとグレてしまうのではないか、と考えたのだと思います。教育環境を変えるという親の方針で、ヤンキーな方も少ない宝塚に引っ越しをしたそうです。

新谷哲:なるほど。中学時代はどのようにお過ごしでしたか?

山根太郎:中学・高校・大学一貫の、関西学院に入学しました。1年生2年生の頃は、プログラミングが好きで、Visual Basicという言語を用いて2Dのロールプレイングゲームをよく作っていました。ところが3年になるころ「命を失うリスクを負ってでも、スポーツがしたい」と親に思いを打ち明け、テニスを始めました。そこから一切プログラミングはやっていません。このような時代になるのだったらもう少しやっておけばよかったです(笑)

新谷哲:そのまま続けられていたら、ITの上場企業社長になっていたかもしれませんね!高校時代はどのようにお過ごしでしたか?

山根太郎: 高校時代はテニスしかしてなかったです。朝5時には起きて自転車で学校に行き、6時~8時半の始業時間までは朝練習。事業中に寝て体力を回復し(笑)15時~18時までクラブ活動をします。終わったらすぐにジムへと移行し、19時まででトレーニングをしていました。そして、19時~22時までテニススクールに通うという生活を365日中360日やっていました。今まで運動を制限されていたぶん、人が嫌がるようなトレーニングも苦ではありませんでした。

新谷哲:相当テニスが上達されたのでは?

山根太郎:テニスは英才教育を受けている方が多いスポーツです。私が始めたのは中学校3年生からですし、それだけの練習をしても全国大会には行くことができませんでした。そのため親からは「大学では勉強に専念しなさい」と言われてしまいました。しかし「世界的に見たらどれだけ自身が無力なテニスプレーヤーかを知るために、世界大会に出てこい」と、最後の思い出にフロリダ遠征に行かせてくれました。国内の全国大会にさえ出ることができない者が、海外のジュニア大会に出場するなど前代未聞です。しかし、なんとそこで準決勝まで行くことができたのです。それから両親は「ベースボールと野球の違いがあるように、庭球とテニスも違うのかもしれない……!」と安易な発想で「大学でも海外を回ったら?」と大賛成をしてくれるようになりました。そうして、大学時代からはミズノとテスター契約を結び、海外遠征をしていました。

新谷哲:それはもう、プロということですよね!?大学時代もテニス中心の生活をされていたのですか?

山根太郎:はい。お金は頂いていませんが、21歳で引退をするまでセミプロとして活動をしていました。

新谷哲:なるほど、当時の思い出はございますか?

山根太郎:大学時代では、青春時代に心血を注いできたもので挫折をしたという経験が一番の思い出です。21歳のときにテニスを辞めるきっかけとなった2つの試合がありました。1つ目は、20歳のころ、11歳ほどの錦織圭と試合をしました。大学2年生で心身ともにピークであるはずなのに、小学校5年生の天才と実力はどっこいどっこいで、ギリギリの勝利でした。2つ目は、錦織圭と試合をした直後の海外遠征で、世界500位ほどの無名選手と戦い、10分で0-6、0-6となり負けてしまったことです。そこから「人生をテニスに捧げるのはリスクが高い」と感じ挫折をしたのです。帰国し半年間は全く何も手につかない状態で、いわゆる「燃え尽き症候群」でしたね。

新谷哲:そこから就職について考えるようになったのですか?

山根太郎:はい。私は今までテニスばかりしてきました。今後どのような職業に就こうか考えたとき「テニスの何が好きだったのか?」を要素分解していきました。1つ目は、1人でもできるスポーツだったということです。朝5時~夜10時まで練習に付き合ってくれる方はなかなかいません。私には一人でも打ち込めるという点が合っていたのだと思います。2つ目は、テニスを通して様々な経験ができたことです。当時は、海外遠征で1年にのべ20か国ほどの転戦をしていました。色々な所に行き、色々な人に会い、色々な物を食べることがとても好きでした。そして、これらができる所を考えたとき「総合商社だ!」と思ったのです。しかし、超難関の人気総合商社に就職するのは簡単ではありません。そのため「留学をさせて欲しい」と親に頼み込み、イタリアのフィレンツェへと留学をすることにしました。

新谷哲:留学時代の思い出はございますか?

山根太郎:留学時代は、自分がマイノリティになったことがあるという経験が、現在でも役に立っていると感じます。国が違えば、文化や時間に対する感覚も違います。南の方に行くとアジア人に対する差別もあり「チーナ、チーナ」と中国人を侮蔑する言葉を言いながら、石を投げられたりもしました。また、友人のテニス選手から「イタリアの試合に出るから応援に来てよ」と誘われて行くと、急遽「ダブルスを組んでくれないか?」とお願いをされ試合に出たことがあります。そのとき、日本人の私たちだけ、オフィシャルホテルの部屋がありませんでした。もちろん、ホームステイ先のおばさんや、すごくよくしてくれた方たちの思い出もたくさんあります。留学をすることで「多様性を受け入れることの大切さ」を学びました。

新谷哲:なるほど。その後、伊藤忠商事株式会社繊維カンパニーへとご入社されました。繊維は伊藤忠で一番伝統のある分野です。商社の中でも、こちらを選ばれたきっかけはございますか?

山根太郎:伊藤忠商事では入りたい部署を選んで面接を受けることができます。私は、伊藤忠なら繊維、三菱ならプラント、三井なら鉄工といった、その会社で一番の部署で働きたいと考えていました。まだ若かったこともあり「電通も内定とったけど~」と言いたくて、広告代理店や外資など、モテそうなところも一通り受けましたが(笑)伊藤忠に内定をもらった段階で、入社を決意しました。

新谷哲:狙った通りエース部門へ入社できるとはご優秀です!

山根太郎:今は採用する立場になり、たまにTwitterやインスタのDMで「こんなにも御社のことが好きなのに、なぜ不採用になったのか理由を教えてほしい」と、メッセージが来ることがあります。その方たちにいつも「本当に入りたいと思い、それに伴った行動をしましたか?」と伝えています。もし「社長に1回でも会わして欲しい」と社長室を訪ねていたら結果は変わっていたかもしれません。当時の私は、ものすごい数のOB訪問をしていました。それだけでも「入社したい」という意思は相手に伝わります。確かにテニスで海外遠征をしていたので、体育会系でイタリア語と英語が喋れるという経歴は商社マン向きだとは思います。しかしそれがあったにせよ、私より優秀な方はいっぱいいます。彼らとは圧倒的にアプローチの仕方が違いました。

新谷哲:学生さんには大変参考になるお話ですね。

山根太郎:だからと言って「社長に会わせてくれ」と毎回来られても困ってしまいますけどね(笑)

新谷哲:そうですね(笑)伊藤忠商事株式会社では、上海駐在をされていらっしゃいました。こちらはご自身でお手を挙げられたのですか?

山根太郎:違います。1年目のときに、部の物流経費を一本にまとめ削減するというプロジェクトを勝手にやりました。それを評価して頂き、同期最速で駐在が決まったのです。私のいた部署では、ミラノ、パリ、ロンドン、ニューヨーク、上海、香港を担当していました。どこも魅力的ですが、上海と香港だけは嫌だなと思っていたら、上海に駐在することになったのです(笑)ミラノやパリでは情報を取ってきて日本に送ることがメインですが、中国・香港では内地で自分たちの商売を作り稼いでいきます。私のような人間は、中国・香港のような駐在地の方が合っているという上司の判断でした。

新谷哲:上海に駐在されていた2010年頃は、中国経済がグッと伸びた時期です。非常に面白かったのでは?

山根太郎:はい。8%成長を維持している最後の2年でした。とはいえ、1年目はお金を出して頂いて上海交通大学に語学留学をしていたので、ただ大学生をしていました。

新谷哲:当時の思い出はございますか?

山根太郎:一番の思い出は、駐在先の直属だった日本人上司と馬が合わなかったことです。そこの部署には2人しか日本人がいないのに、半年間口をききませんでした。挙句の果てに「挨拶もできないのなら、お前は部下でも社員でもない。パソコンとデスクを使うな!」と言われ、会議室へ放り込まれてしまいました。

新谷哲:その通りに従ったのですか!?

山根太郎:そうですね。しかし、それを「パワハラだ」と訴えて上司を替えてもらいました(笑)私は商売の家系に生まれて、父親が全て自分で意思決定をしてきているのを見て育ちました。そのため理不尽な上司に対し「なぜ、尊敬できない人の言うことを聞かなければいけないのだろう?」と思っていました。そういうところは、社会不適合者かもしれませんね。

新谷哲:経営者、起業家は社会不適合者が多いと言われています。ある意味、社長の中の社長ですね!その後、株式会社サンワカンパニーにご入社されます。どのような経緯で会社を継がれることになったのですか?

山根太郎:2012年に父が他界しました。その間際に初めて父から「会社を継いでほしい」と言われたのです。そのとき「お前は、日本を代表するような良い会社で働かせてもらえている。5年の年月であれば、今の社員でなんとかなる。研修や駐在で掛けて頂いた費用は稼いでから、喧嘩をせずに戻って来い。」と続けたのです。父は昔、大手百貨店に就職をしましたが、上司と喧嘩をして即日解雇になってしまったそうです。当時「起業」という言葉もなく、せざるを得なく独立したところから、サンワカンパニーはスタートしました。ところが会社を辞めても、その百貨店からは「サンワカンパニーと取引をしたら、口座を抹消します」と先回りをされ、人脈やノウハウは全く使うことができなかったそうです。私は上海駐在をしている最中だったので、父の言うとおり責務を果たしてから会社へ戻ろうと、日々の業務に励んでいました。ところが2013年の年末に、サンワカンパニーの社員代表から「このまま番頭社長が経営を続ければ、戻ってくる会社が無くなってしまいます」と手紙が届いたのです。正直、社員と経営者の意見が合わないことは、どこの会社であっても日常茶飯事です。両方の意見を聞き、真偽を確かめなければと思い、出張にくっつけ当時の社長と食事をセッティングしました。話を聞いたところ「適性がない」と感じる点があり「最速で戻ります」と手紙をくれた社員代表に約束をしました。当初は、海外部長という肩書で入社をする予定でしたが「決定権のない部長では海外のオーナーは話も聞いてくれませんよ。せめて『ヒラ取』にしてください」と社長に伝えました。そうして、翌年の2014年4月1日に入社して、最短の6月12日に臨時総会を開いて頂き、ヒラ取になりました。そして直後の取締役会で、代表権の順位を決めるときに動議を出し、番頭社長には退任して頂き、私が社長となったのです。これは、30歳のころの出来事でした。

新谷哲:サラッとお話されましたが、すごく大きな出来事でびっくりしています。入社されたばかりの取締役会で、過半数の票を集められたということは、根回しができている状態で会社に戻られたのですか?

山根太郎:そうですね。番頭社長以外の役員には、決議の前に話をしました。そもそも、社員代表から手紙を貰っているので、社員側は基本的に賛成で、社外監査役からも反対はありませんでした。社内では「社長」対「社長以外」という構図ができあがっていて、社長派が一人もおらず、情報は一切本人の耳に入っていなかったようです。最初に番頭社長とお話をして「適性がない」と感じたのは、このように全く現場を掌握できていなかったからです。おそらく、経営としても成り立っていなかったでしょう。だからこそ、私は動議を出す決断をしたのです。

新谷哲:票が割れ揉めたという話はよくありますが、ここまですんなりいくのは珍しいお話です。証券会社や監査法人からのお話はございませんでしたか?

山根太郎:監査法人・証券会社・主幹事・東京証券取引所の方々は、実態の把握をするため翌日に飛んで来られました。当時は上場1期目だったので「番頭社長が退任したことで社長派がゴロゴロと抜けていき、内部統制の維持ができないのではないか?」といった内容を聞かれました。しかし「誰1人、芋づる式で辞めていったものはおりません」とお答えすると、安心して帰られました。

新谷哲:なるほど。代表取締役社長へとご就任されて、事業承継でご苦労されたことはございますか?

山根太郎:社員達からの後押しで社長に就任したのですが、その年の年末には約4割の社員に出て行ってもらうことになってしまったことです。なぜかというと、会社の方針に対してやらなければならないことがやれていなかったからです。グローバルカンパニーになるためには「2027年までに売上1000億円ないし、営業利益100億円、私が引退するまでには売上1兆円の企業に成長しよう」と方向性を示しました。そのためにはどのようなことが必要か、噛み砕いて説明をしましたが「そんなことを求められてもやりたくない」という者が出てきました。クビにしたわけではありませんが、会社の方針に納得できない方々が、一気に辞めていったのです。

新谷哲:残った6割の社員には、社長の方針・ビジョンに賛同を頂けたのですか?

山根太郎:どうでしょう。2014年に、正社員56名の組織を引継ぎ、5年後の2019年には社員数、約150名となりました。しかし、そのうち引継ぎ当初から在籍していた社員は6名~7名です。私が会社に入ったのは30歳のころで、会社の平均年齢は43歳、自分よりも年下といえば26歳の女性が一人でした。いくら正論だったとしても「ガキの言うことは聞けない」と考える方が一定数いました。事業承継をして一番難しいと感じたのは「自分が採用した人材ではないので、ロイヤリティが必ずしもあるわけではない」ということです。

新谷哲:ある意味、グローバルカンパニーに向かい、徐々に入れ替わっていったのですね。上場企業を事業承継されたのですから、特有のご苦労もあったのでは?

山根太郎:私は、サラリーマンの平社員からいきなり、上場企業の社長になったというレアケースです。そのため、経営者のステータスとして上場・未上場の比較はできません。しかし、ステークホルダーが多いので「意思決定にスピード感がない」と感じるタイミングは多々あります。

新谷哲:ありがとうございます。もしよろしければ、株式会社サンワカンパニーの事業内容をお教えいただけますか?

山根太郎:住宅設備機器、建築資材のインターネット通信販売事業を展開しています。オンラインでカード決済ができ、BtoC決済ができる、建築・建材業界で唯一無二のプレイヤーです。また同業他社である、TOTO・LIXILさんなどでは、リフォームや家を建てるときには業者を挟みショールームに行き商品を選びます。そこを弊社では、高コストの原因となる中間業者を経由しないことで、誰にでも高品質な商品を適正価格で提供することを実現しました。

新谷哲:ありがとうございます。ここからは違う質問をさせていただきます。好きなもの、好きなことをお聞きして「ラーメン、焼き肉、イチゴ、アイスクリーム、スポーツ観戦、テニス、旅行(主に南国)」とお答えいただきました。甘いものがお好きなのですね!

山根太郎:女の子みたいですよね(笑)脳みそは糖分しか吸収しません。経営をしていると頭を使うので、脳が甘いものを欲しているのかもしれません。

新谷哲:山根太郎社長のかわいらしい一面ですね!座右の銘もお聞きして「蒔かぬ種は生えぬ」とお答えいただきました。こちらを選ばれた理由はございますか?

山根太郎:よく、業務改善を促すためには「PDCAを早く回すことが大切」と言われています。ところが大体の方は、Plan(計画)Do(実行)Check(評価)Action(改善)の段階のうち、「P」にとても時間をかけているのではないかと感じています。計画の段階で、リスクを避けて実行に移すことができなければ、何もしていないのと一緒です。そのため私は、Do(実行)を小さく始めて、DCAとサイクルを最速で回していくようにしています。Plan(計画)だけでは、まだ種は蒔いていません。Do(実行)して初めて「水が足りないのかな?」や「肥料が足りないのかな?」と改善に向かうことができるのです。計画だけして実行に踏み出すことができない人間に、自分はなりたくありません。そのように考え「蒔かぬ種は生えぬ」を座右の銘にしています。実は私、麻雀も好きなのですが、このDCAサイクルを活用して行うと、うまくいくことが多いのです(笑)

新谷哲:経営者は麻雀がお好きな方が多いですね!有名な話では、サイバーエージェントの藤田晋さんは、麻雀で社員を採用することもあるそうです。次が最後のご質問です。全国の経営者、これから起業する方に向け、経営者として成功する秘訣をお教えください。

山根太郎:私の思う成功の秘訣は「自分より優秀な人をチームに引き入れる」です。弊社では、優秀なナンバー2をCOOとして迎え入れたことにより、グッと会社が良くなったことを実感しました。社長が道なき道を進んでいくとき、後ろの人が進みやすいように道を舗装する人が絶対に必要です。COOがその役目を担い、社内の「顕微鏡」となってくれていることで、私は「望遠鏡」に集中することができるようになりました。この経験から、ある分野で自分より秀でたものを持つ人をチームに入れようにしています。結果、既存業務に至ってはほとんど口を出すことも無く、順調に業績を伸ばしています。

新谷哲:ありがとうございます。山根太郎社長、本日はありがとうございました。

編集後記

今回は、山根太郎社長でした。たいへん面白いお話でした。なんと言っても、ご経歴が珍しいです。30歳という年齢で、取締役会で動議を出し、サラリーマンからいきなり、上場企業の社長になってしまったのですから。これは、自分がどちらの立場にもなりえます。非常に珍しいケースですが、こういうことはあるのだと教訓にするべきだと感じました。ぜひ皆様も参考に、共に成功社長を目指していきましょう!

山根 太郎氏
株式会社サンワカンパニー 代表取締役社長

1983年、奈良県奈良市生まれ。関西学院大学経済学部を卒業後、2008年伊藤忠商事株式会社繊維カンパニーに入社。その後、2014年4月に株式会社サンワカンパニーへ入社し、同年6月に代表取締役社長に就任され、東証マザーズ最年少社長として注目を浴びました。就任後には数々の改革を起こし、業界の常識を打ち破り住宅設備機器のEC販売、モジュラー建築「CLASCO」などの新規事業、海外事業を本格展開されます。世界最大規模の家具見本市「ミラノサローネ国際家具見本市」では、最も優れた出展企業に贈られる「ミラノサローネ・アワード」を、2018年にアジア企業として初の受賞をされるなど、業績を残されています。また、自身の事業承継の経験をもとに、著書「アトツギが日本を救う」の出版や、一般社団法人ベンチャー型事業承継の顧問を務め若手後継者に支援をする傍ら、HEAD契約テニスプレーヤーとしての活動もされています。

※本インタビューへの出演をご希望の方はこちらよりご応募ください。

本インタビューは、Podcast「社長に聞く!in WizBiz」で配信中の経営者インタビューを編集したものです。文中に登場する社名、肩書、数字情報などは、原則、収録当時のものですので、予めご了承ください。
今回は、山根 太郎氏(株式会社サンワカンパニー 代表取締役社長)の経営者インタビューを取り上げました。

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