成功経営者インタビュー

株式会社マーキュリアホールディングス 代表取締役 豊島俊弘氏 インタビュー

本コーナーで掲載する経営者インタビューは、Podcast「社長に聞く!in WizBiz」で配信中の経営者インタビューを編集しています。今回、ご紹介する経営者は、豊島俊弘氏(株式会社マーキュリアホールディングス代表取締役)です。(2023年6月28日 2023年7月 5日 配信)

今回は、株式会社マーキュリアホールディングスの豊島俊弘氏にお越し頂きました。不動産バブルやインターネットバブルの崩壊、リーマン・ショックやコロナショックなど、多くの経済的な転機を、投資をする側として経験。その流れの中で見つけた成功の秘訣から、経営のヒントが得られます。ぜひ、インタビューをお聞きください。

新谷哲:今回の社長に聞くin WizBizは、株式会社マーキュリアホールディングス代表取締役、豊島俊弘様です。まずは経歴をご紹介します。東京大学法学部卒業後、日本政策投資銀行に入行。世界銀行を経て、現在のマーキュリアホールディングスの前身の株式会社マーキュリアインベストメントの創設に関わられました。2016年には東証二部(現・スタンダード市場)に上場。その後、東証一部(現・プライム市場)に上場されました。豊島俊弘社長よろしくお願いいたします。

豊島俊弘:よろしくお願いします。

新谷哲:最初のご質問です。ご出身はどちらでしょうか?

豊島俊弘:出身は大阪です。

新谷哲:事前にいただいたプロフィールにお祖父さまが繊維商社とございましたが、本町辺りですか?

豊島俊弘:まさに本町ですね。

新谷哲:小学校時代はどのようにお過ごしになられましたか?

豊島俊弘:小学校時代はいい子だったと思います。祖父は繊維商社の経営者ですが、父親は4番目の子供で家を継ぐ必要がなく、医学研究の道に進みます。それで小学校の初めはアメリカのシアトルにいました。その後、日本に帰ってきたので馴染めない時期がありましたが、普通の子供時代だったと思います。

新谷哲:中学時代は灘中学校に入られています。日本でもトップクラスの中学校を受験されたということは、相当頭が良かったのではないですか?

豊島俊弘:どうなんでしょう? ただ昔の受験は、今ほど高度化されていませんので、特別な塾に行くことはありませんでした。私の場合は兄も入っていたので、何となくという感じで、特別に何かを考えて入ったわけではなかったですね。

新谷哲:灘中学校時代は、どのようにお過ごしになられましたか?

豊島俊弘:灘中学校は非常にクセの強い学校でした。同級生もクセの強い人が多かったです。学校ではどんなコンテンツを学ぶかも重要ですが、一緒に触れ合う人たちから学ぶこともあります。良くも悪くもありましたが、自分から見て「スゴいものを持っている」と感じる人がたくさんいたことは、私にとってかけがえのない経験になりました。

新谷哲:部活動はされていたのですか?

豊島俊弘:ワンゲルという、山登りの部活をしました。六甲山や北アルプスなどにも行きましたね。高校の時は、正式なクラブではありませんが、皆で集まってソフトボールをやっていました。

新谷哲:高校時代の思い出はございますか?

豊島俊弘:高校になる頃に、親が仕事を大阪から東京に移した関係で、高校は下宿をしていました。下宿をしたことで通学時間がなくなりますので非常に楽しく、その意味では堕落した高校生活になったと思います。

新谷哲:卒業後は、東京大学にお進みになります。灘高校の中でも頭の良い方だったのですか?

豊島俊弘:自分では全然思っていません。当時の灘高校は1学年220人ぐらいで、東京大学に100人くらい受かりましたね。ただ、受かった時はほっとしました。

新谷哲:なるほど、ありがとうございます。東京大学の法学部に進まれましたが、選ばれた理由はなんでしょうか?

豊島俊弘:私の兄が医学部に行ったこともあり、自分は別の事をやりたいと思い法学部を選びました。

新谷哲:東京大学時代はどのようにお過ごしになられましたか?

豊島俊弘:大学時代ですが、実はあまり勉強しませんでした。その代わり馬術部の活動が楽しかったです。元々動物好きということもありますが、競技であると好き嫌いなんて言ってられず、4年間熱中しました。

新谷哲:卒業後は日本開発銀行、今の日本政策投資銀行にご入行されます。東大法学部出身の方は、弁護士か官僚になるイメージが強いですが、そちらの方面に行こうとは思われなかったのでしょうか。

豊島俊弘:勉強をしなかったからです。4年生になってから改めて公務員試験を受けたり、弁護士になるという人もいたのですが、私は「留年するほどの価値があるのか?」と思い、日本開発銀行に入行しました。

新谷哲:日本開発銀行はいわゆる政府系銀行で、普通の銀行とは違いますがこちらを選ばれた理由は何かございますか?

豊島俊弘:こんなことを話していいのかと思いますが、当時はリクルート社が、紙のリクルート雑誌を学生に送っており、私はあまり深く考えずに雑誌についているハガキを送っていました。そんな中、私が4年の時に馬術3種目全てで、全日本に出ることが決まりました。すると、東大出身の日本開発銀行の方から「就職活動なんかしている場合じゃない」と声をかけていただき、その縁で選びました。

新谷哲:お話を少し戻しますが、馬術がお上手だったのですね。

豊島俊弘:東京大学の大会でも2つぐらいは優勝したものがありますし、関東大会で10位ぐらいに入ったこともあります。

新谷哲:オリンピックを目指そうとは思わなかったのですか?

豊島俊弘:オリンピックに出られた方に付いて、指導を受けた時期もあります。ただ、オリンピックに出る方はやはりレベルが違います。子供の頃から馬術をしている人達にはかなわないと思いました。

新谷哲:ありがとうございます。では、話を進ませていただきます。日本開発銀行での思い出などはございますか?

豊島俊弘:入ってみると周りにいる人たちは優秀な方が多かったです。公務員試験に受かった方や、弁護士になろうとした方もいたので、入社式の時に役員の1人から「君は卒業しないと思った」と言われました。その時に身の程を知ったのが社会人のスタートでした。また、あまり勉強をしなかったのですが、大学時代に法律に触れたのは良いことだったと思いました。例えば、90年代は「金融はサイエンスだ」という考えが持て囃された時代です。そういった面は確かにありますが、数学的に見通すことが出来ないことが起こるので、契約条件が重要になります。そんな契約の使い方を考える上で必要なことを、大学で学んでいたと後から気付きました。

新谷哲:日本開発銀行にいらっしゃる間に、マサチューセッツ工科大学の留学を社会人としてなさっていますが、どのような経緯でしょうか?

豊島俊弘:これは、社内の留学生試験で受かって、アプライしたということです。

新谷哲:マサチューセッツ工科大は世界1位~3位ぐらいですから、行内でも優秀だったのでしょうか?

豊島俊弘:当時は、行内で毎年1つの代で2人ぐらい、海外留学のチャンスをいただけました。これは大変ラッキーでしたし、やはり感謝しています。1990年~1992年、この時期にアメリカで学んだことは、その後の私のビジネスマンとしての人生の礎になっております。

新谷哲:マサチューセッツ工科大では、どんな勉強をなさったのでしょうか?

豊島俊弘:不動産の証券化や流動化、今でいうストラクチャードファイナンスです。技術としての流動化・証券化も大切でしたが、もっとも大切なことはアメリカのバブル崩壊です。日本のバブル崩壊は90年ぐらいですが、アメリカはその前の80年代半ばに起こりました。地方の貯蓄銀行の破綻が大量にあり、この不良債権処理が90年~92年のホットトピックスだったのです。話さなくてもお分かりになると思いますが、卒業して日本に戻ってくると日本のバブル崩壊が始まっていました。その時に何が起こり、どう対処すればいいのかという地図を、自分の中にサッと描くことができました。これが非常に大きく、私のビジネスマンとしての大きな原点になりました。

新谷哲:では、ある意味エースとして活躍されたのですか?

豊島俊弘:どのようにすべきかのビジョンは頭の中にありましたが、日本開発銀行はバリバリの年功序列でした。そのため最初のうちは、自分の考えている事、やるべきだと言っていることが行内で受け入れられませんでした。しかし、私がいた企画部の部長が「豊島の言っていることは理に適っているから、やらせてみよう」と任せてくださりました。この方には今でも感謝しています。またもう1人、後任の部長も動いてくださいました。この方は銀行員でしたが、工学部出身で非常に合理的でした。私が何を提案しても反対する中「何かを決めるとき、決定して実行したことは記録に残る。しかし、却下された記録は残らない」と言ったのです。この時に私は「どの企業にも同じような金利で貸すのはおかしい。リスクに応じて金利体系を変えるべき」と提案をしました。しかし「日本はそういった文化ではない」と判定する方が多かったのです。2人目の部長はそんな中で「金利についてリスク別金利という体系に反対した人の名前を記録しよう。決定を通さなかったものについて、それを阻止した人間の責任も問われるべき」と続けると、私の案は承認されました。当時の日本はメガバンクもリスク別金利を採用していない時代でしたので、非常に大きな一歩になったと思っています。

新谷哲:なるほど、ありがとうございます。

豊島俊弘:もう1つ付け加えますと、会社に対する金利は最初から変えたわけではありません。バブル崩壊後、倒産しそうな会社など、金利を変える以前に貸せない会社が多く出ました。しかし、貸せない会社の中にも、良い資産を持つ会社はあります。そのような会社でも、新しくやるべきプロジェクトがある場合には「会社の保証はいりません。その代わり、この資産や、このプロジェクトにお金を付けます」としました。保証はしないのですから、金利体系も変えますよ、と制度を変えていきました。業界ではストラクチャードファイナンスやノンリコースファイナンスと言いますね。

新谷哲:私は金融コンサルタントをやっていたので、ちょっと興奮しています。バブル崩壊後のことですから、事業再生なども手掛けたのではないですか?

豊島俊弘:リスナーの方は信じられないと思うでしょうが、事業再生という言葉は実は私が作りました。

新谷哲:なるほど。

豊島俊弘: 2001年の春に事業再生フォーラムというのをやり、そのときにこの事業再生という言葉を初めて使ったわけです。事業再生という言葉の裏側は実はすごく深く、私は会社には5つの概念があると言っています。1つ目は、法人格が登記されていること。次に法人格を持っているのは株主ですから、2つ目に株主。3つ目は、その株主に選ばれるのは経営者。それから法人との間の雇用契約でその法人で働いている従業員が4つ目になります。そして1つの法人の中でも小売り部門や卸売部門など、様々な事業部門があります。そういう部門が5つ目の概念です。バブル時代はご存じのように、不動産投資や為替投資などの財テクを、本業がある会社がやりました。バブル崩壊後は財テク部門の価値がなくなりますが、コーポレートファイナンスの考えだと、法人格丸ごと沈んでしまいます。しかし、財テク部門以外に良い事業がある会社はその事業を再生しよう、というのが事業再生です。ところが会社更生と言うと、会社という法人格が対象になります。それから民事再生というのは和議法から出てきた言葉で、経営者がそのまま残れてしまいます。それから銀行がやる場合は私的整理になりますが、銀行の債権放棄だと根本的な解決にはなりません。どのプロセスを取るかによって有利になる人が変わるので、会社単位で議論をすることになりました。しかし会社単位で議論をすると、例えば「従業員を守らなければ」という人権的な考えで「銀行が全部悪い。銀行の一般債権100%カットからスタートする」となる場合もあります。こうなると銀行はなかなか協力をしてくれません。そうではなく、会社の中にある良い事業と悪い事業を分け、良い事業を立て直す必要があります。立て直すためにはお金が流れ続けなければならず、だから、倒産申し立て後の会社にもきちんとお金を付けます。それが事業再生です。

新谷哲:私もコンサルタントとして事業再生をしたことがあるので、非常に興奮するお話でした。その後、世界銀行にお移りになられます。世界銀行に行く方は稀だと思いますが、どのようなきっかけがあったのでしょうか?

豊島俊弘:90年代はずっと不良債権の処理をやってきましたが、組織の中では若手でした。自分がやることの1つは、不良債権処理の分野を深めて拡大をしていくことです。しかし、部門が大きくなると上司が変わったり、仕事を分割して人の手に委ねなければなりません。その状況にフラストレーションを感じていたことが1つ。もう1つは、東西冷戦が終わった後の世界がどう変わっていくのかを勉強したいという気持ちがあったことです。それを見るには世界銀行で行くのがいいと思い、転職をしました。

新谷哲:世界銀行での思い出はございますか?

豊島俊弘:思い出はたくさんあります。今の仕事に直結することでは、2001年にアメリカがベトナムと貿易協定を結び、同じ年に中国がWTOに入りました。95年の時代、Windows95以降の世界では、経営学の世界では「プロダクトアウトからマーケットインだ」という議論がされており、WTOという世界市場がどんどん広がっていました。また90年代の初めごろにはバラバラだったヨーロッパ市場がEUという大きな市場に変わりました。そうすると、日本の市場は人数などの規模から考えれば大きくありません。その中に同じような事業の会社がたくさんあります。これは明らかにプロダクトアウトの発想なのです。その時にマーケットがどのように変化するのかを見極めようとしました。世界銀行でそれらを見たことは、今の仕事に繋がったポイントだと思います。

新谷哲:その後、現在のマーキュリアホールディングス、マーキュリアインベストメントの設立に関わることになります。世界銀行を退職してマーキュリアインベストメントをやろうと思ったのは、何かきっかけがございますか。

豊島俊弘:きっかけは、3年目の時です。世界銀行では毎年世銀大会っていうのがあって、世界各国の開発金融機関の人が集まってカンファレンスをやるのです。そのときに日本政策投資銀行の社長だった小村さんが、私のことを覚えてくれていました。倒産した事業再生の第一号案件をやった時、多くの人が「倒産した会社には多くの関係者が絡んでいるから手を出すな」と言う中で「これはうちの銀行がやるべき案件だ」となったことを、よく覚えていてくれたのです。彼が世界銀行に来た時に「最近、何を考えているか、何をやっているか話を聞きたい」というので、1回食事をすることになりました。そこで「日本経済は成熟しているが、世界経済はスゴい勢いで伸びていく。メインバンク制の銀行ローンでは世界経済についていけない。エクイティの突破力が必要だ」という話をしたら、非常に感動していただきました。この話を気に入っていただき、私が銀行を辞めて日本に戻ってくるのであれば、ファンド立ち上げを支援していただけるということで、日本に戻ってきました。

新谷哲:上場は最初から狙っていたのですか?

豊島俊弘:狙っていたわけではありませんが、上場した理由は2つあります。最初の頃、2005年頃は投資が上手くいっていたのですが、2007年にサブプライムショックが始まり、2008年にリーマン・ショックになって投資業界が大変なことになりました。この時に出資していただいた方々からは「調子の良いことを言っていたがダメダメじゃないか」という声を多くいただきました。しかし、世界経済の伸びについていくわけですから「頑張らないといけない」と奮起しました。これが1つ目です。2つ目は、苦しい時代を一緒に戦ってくれた仲間や株主の方に、リターンを返すためです。ただ、この2つは私個人から出る理由です。それとは別に、低流動性のファンド、特にプライベートエクイティというのを主業にしている会社で、日本国内で上場している会社はありませんでした。自分の儲けだけでなく、パブリックなドメインで監視される中で事業をすることが、低流動性分野におけるファンドマネージャーの役割を大きくする上で必要ではないかと考え、上場という道を選びました。

新谷哲:上場に向けてのご苦労はございましたか。

豊島俊弘:苦労はもちろんありました。1つは、上場する前の2年間はあまり新しいことができないことです。上場審査を受けている間、証券会社のご指導を受けて上場審査を受けている間は、おとなしくしなければいけません。これは上場を目指すスタートアップ企業であれば同じ悩みがあると思います。上場して資金を得たら、ジャンプスタートで事業拡大をして成長をしなければいけない。逆に言うと、そのアイデアがあるから上場を狙うのです。だから上場をするまで派手な動きをしてはいけません。私たちのファンドは、1つひとつの投資期間が5年という長い期間になります。上場準備の間に新しいファンドを作ることが出来ず、エグジット面では2020年前後に少し減ってしまいました。今は上場後にスタートしたものが刈り取り段階で、次のファンドも立ち上げられているので、成長サイクルに乗ってきたと思います。上場前に動けないのはジレンマでした。

新谷哲:インベストメントバンクならではの苦労ですね。次に、貴社の事業内容をお教えいただけないでしょうか?

豊島俊弘:専門用語で言うと、低流動性のオルタナティブに対する投資をマネージする会社ですが、普通の方は分からないと思いますので説明します。まず低流動性ですが、これは上場していない株などをイメージしてください。上場株はネット証券とかでボタン1つで売買できますが、上場していない会社は簡単には買うことはできません。今は株券不発行ということで株券発行していない会社が多いので、契約をしないと投資はできません。契約をする前にその会社の財務をつぶさに調べなければなりません。だから会社を買うにも時間がかかりますし、売却する場合も事前に調査をしてイグジットしなければいけません。その意味では、売買のタイミングを選べません。こういうものは低流動性といわれるのです。上場していない会社は全て低流動性と考えてください。それからオルタナティブとは代替という意味があり、オルタナティブ自体には定義がありません。その他もろもろということです。オルタナティブに対して、トラディショナル・伝統資産というものがあります。これは金融業界では伝統4資産と呼ばれる、株と債券(国内株・国内債券・海外株・海外債券)のことで、それ以外のもの全てがオルタナティブになります。こうした毎日トレード出来ない商品に投資し、管理し、そこからキャッシュフローを刈り取り、それを投資、お金を出した人たちに配っていくことが、弊社の仕事になります。

新谷哲:ありがとうございます。ここからは全く違う質問をいたします。事前に好きなこと・好きなものをお聞きして「旅行と読書」とお答えいただきました。海外経験もありますので、わりと海外旅行に行かれるのですか?

豊島俊弘:旅行と読書というのは、特に書くことがない場合の言い訳のようなものですね。もちろん、旅行も楽しい、読書も目的があれば楽しいです。本当の趣味はこの後の座右の銘にも関わるのですが、物を考えて気付くことがとても好きです。例えばニュースの記事でも、書いてあることその通りに理解するのではなく「何でこの事件が起きたのか?」と背景を考えたり「あ、この事件はこうした背景で起こったのか」と気付くことがとても好きです。結果として言うと、海外に旅行をしたときは、違うことに交わるので気付きが多いです。世界銀行に行く前は、自分は無宗教だと思っていました。行内ではやはりキリスト教、ユダヤ教、イスラム教、ヒンドゥー教など、様々な宗教の人と出会います。そうすると、反対解釈から自分の考えは仏教や、東洋思想の影響を受けていると気付きます。これは日本にいるだけでは気付きにくいポイントだと思います。

新谷哲:ありがとうございます。次は座右の銘です。事前に「考え気付くこと、覚えたものは忘れるが、気付いたことは忘れない」とお答えいただきましたが、もうお話しいただいたので飛ばさせていただきます。次が最後のご質問です。全国の経営者、これから起業する方に向け、経営者として成功する秘訣をお教えください。

豊島俊弘:1つ目は私の座右の銘です。やはり気付きがなければ成功しません。たまたま儲かることはなく、マーケットに隙間やチャンスがあるから儲かります。しかし、正しいことをやったから儲かる保証はありません。気付く人は多いですが、成功まで成し遂げる人はなかなかいません。ただ、最初の気付きがなければ成功は絶対にありません。このように考えた時、創業者の多くは気付きを得ていると思いますが、事業をする中で非常に多くの困難にぶち当たります。私の場合は、バブル崩壊後の日本経済の困難や、創業後のリーマン・ショックなどです。そういう厳しい困難に当たりましたが、私は常に自分の気付いたものの価値をずっと信じ続けました。困難の中でもコンスタントにブレず、自分の信じる価値を守っていくこと、成功するためにはこれも大切です。また、上場をしたりすると「すごいね、すごいね」と周りから言われ、失敗すると「お前は駄目だ」と周りから言われます。しかし、自分に信念があれば、周りの声に惑わされません。「勝っておごらず、負けて卑屈にならない」これが、私が変動の大きい金融業界で長年生き残り続けた理由だと考えています。

新谷哲:私も「勝っておごらず、負けても卑屈にならない」ようにしていきたいなと思います。豊島俊弘社長、本日はありがとうございました。

豊島俊弘:ありがとうございました。

編集後記

今回は、株式会社マーキュリアホールディングスの豊島俊弘社長でした。東大法学部を出ているプライム市場の社長は、やはりレベルが違います。金融業界、いわゆるファンドや事業再建の素晴らしい知見も持っていらっしゃいました。私も銀行コンサルタントとして事業再建に関わったことがあるので、インタビュー中はずっと興奮していました。特に「勝っておごらず、負けて卑屈にならない」の姿勢は素晴らしいです。皆様もぜひ、豊島俊弘社長をマネて素晴らしい企業を作っていただけたらと思います。

豊島俊弘氏
株式会社マーキュリアホールディングス代表取締役

日本政策投資銀行(以下、DBJ)に1985年に入社。グロース・クロスボーダー投資グループ長や、世界銀行上級民間セクター専門官等を歴任。2005年以降は、DBJで成長投資を担当すると同時に、創設メンバーとして当社に参画。2008年に代表取締役に就任。マーキュリアインベストメントグループの発展を主導。DBJでは不動産証券化・PFI・事業再生業務の立ち上げを行い、世界銀行ではアフリカ諸国の国営企業民営化に携わる。

※本インタビューへの出演をご希望の方はこちらよりご応募ください。

本インタビューは、Podcast「社長に聞く!in WizBiz」で配信中の経営者インタビューを編集したものです。文中に登場する社名、肩書、数字情報などは、原則、収録当時のものですので、予めご了承ください。
今回は、豊島俊弘氏(株式会社マーキュリアホールディングス代表取締役)の経営者インタビューを取り上げました。

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