危険水域に突入した内閣の低支持率を気にしてか、福田首相は積極的な外交パフォーマンスを続けている。もちろん議長を務める洞爺湖サミットの成功を願ってのこともあるに違いないのだが、はたしてその思いは諸国、はたまた日本国民に伝わるのであろうか。
幕府役人が見せた外交手腕
日本の外交史のエポックメイキングとなるのは、やはり1853年の黒船来航でないだろうか。黒船の来航は、260年にわたり安寧としていた日本国内に大きな衝撃を与えた。かつてこの稿で書いたことがあるが、それは自動で汽船が走るという事実に驚いたことはもちろんだが、「アヘン戦争が日本に来た」という驚きがさらに大きかったのである。
アヘン戦争とは1840年から約2年の間、中国(当時は清国)とイギリスの間で起きた政治的、武力的な衝突をいう。結果はイギリス軍の武力を用いた進撃により、時の清国政府は屈服。巨額の賠償金をはじめ、香港の割譲などを強いられる。
日本にもその情報は、オランダの商人などからもたらされたわけであるが、いつの日か日本もその憂き目に遭うのでは……との恐れは知識階級を中心に広がり、恐怖は黒船来航によって野火のように広がったのである。
ところが幕末の江戸幕府と、来航したアメリカ・ペリー提督の交渉は、なかなかどうして、当時としては驚嘆すべき粘り腰を見せ、1854年に交わした日米和親条約は、当時のアジアとの条約のなかではきわめて平和的に結ばれた。
ペリーの「場合によっては開戦も辞さない」という脅しに対し、「別に互いに恨みがあるわけではないのだから」といなし、内容もまず通商条項を削除させ、開港も下田・函館の2港に限定。アメリカの当初の狙いであった自国漂流民の保護については、日本の漂流民もアメリカ側に保護させることを認めさせるなど、幕府役人は見事な外交手腕を見せた。
古事記の暗誦で租借をうやむやに
その一方で、諸藩のなかで諸外国の交渉できわだったのは、長州藩だ。
1863年5月長州藩は、攘夷の大号令のもと(とはいえ、朝廷を脅し、すかし攘夷の勅令をださせたのは、長州藩自身であったが)、下関の砲台から門司海峡を航行する外国船に砲撃を加える。
それに対しイギリス、フランス、オランダ、アメリカの四カ国は共同して、懲罰的な開戦を決定。1864年7月に軍艦を下関に進出させ圧倒的な火力により、下関の各砲台は粉砕され、あろうことか陸戦隊に占領されてしまう。
結果長州藩は降伏し、四カ国との講和に踏み切るのだが、そのときの長州側の使者に選ばれたのが高杉晋作。じつは高杉、この直前まで脱藩の罪で拘禁されていたのだが、未曾有の危難に藩家老宍戸備前の養子・宍戸刑部を名乗り、四国連合艦隊旗艦に乗り込み、堂々と交渉に臨む。
高杉は淡々と交渉し、下関海峡の外国船通行の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡しなど、出された5カ条は何の反対もせずにすべて受け入れた。しかしただひとつ彼が頑強に拒否したのが、長州藩領土にある彦島の租借だった。
じつは高杉自身は、通訳による“租借”という意味がわからなかったのだが、以前上海に密航したさいに見た、“闊歩する外国人”に対し“屈辱的な生活をしている中国人の姿”がとっさに思い浮かび、あぁあれかと思い拒否したのだのだという。そのとき彼は何をしたか。なんと古事記を延々と暗誦しだし、結果彦島租借の件をうやむやにしてしまったという話が残っている。
歴史作家・司馬遼太郎氏によれば、日本史上もっとも有能な外交が行なわれたのは、明治期の日露戦争前後だというが、この幕末においても幕府、諸藩含めて交渉が行なわれていたようだ。その後、日本がアジア諸国と違った道を歩んだ淵源は、まさにこの時期にあったのである。