いまの時代に蘇る警世の一言

あなたは忠義の人か、功業の人か。死を賭した吉田松陰の叫び。
「君たちと違うところは、私は忠義をしようとし、君たちは功業をなそうとしている」とは吉田松陰の言葉だ。まさにいまの時代に蘇る警世の一言である。

「君たちは功業の人だ」との叫び

幕末の先覚者・吉田松陰の手紙のなかに、「忠義の人、功業の人」という言葉がある。あまりにも有名であるが、それは松陰が弟子である高杉晋作、久坂玄端らに宛てた手紙のなかの一文にしたためられた激烈な言葉だ。

吉田松陰が長州藩都・萩の獄中にいたときのこと(安政6年1月。この年の10月に安政の大獄によって彼は刑死する)。その獄中においても、松陰は自らが開始した討幕革命の動きを止めようとしなかった。

たとえば長州の藩主・毛利敬親を、参勤交代の途中のカゴを止め、京都で「討幕へ」と説得しようという計画もそのひとつ。また時の老中・間部詮勝の襲撃なども考えていたという。革命を成就するためには、行動が必要だ。松陰は、獄中からも高杉や久坂に向かい檄を飛ばしつづけた。

ところがだ、門下はその松陰の燃え上がるような革命の息吹を理解できない。むしろ逆に、「先生のお気持ちはよくわかりますが、時期尚早であり、成功の見込みは少なく、ここは我慢をして、時を待つべきです」と諌める手紙を送る。別の計画も、実行に走ろうとした弟子を、他の弟子たちが説得して、やめさせた。なかには藩に計画を“密告”した弟子もいた。あきらかな裏切りである。

たび重なる弟子の諌めに、そしてその体たらくに松陰は、弟子たちにこう言い放つ。「江戸にいる久坂、高杉なども皆、僕と考えが違う。その分かれるところは、僕は忠義をするつもりであり、諸友(=弟子たち)は功業(手柄)をなすつもりなのだ」と。“自分は成否はともあれ、忠義の赤誠を貫くつもりである。それなのに諸君は、手柄を立てるつもりなのだ。意見が違い、生き方が違う”と厳しく指弾したのである。松陰は門下の高杉晋作、久坂玄瑞らを名指しで批判し、「絶交」した。

「革命のための人生か」「人生のための革命利用か」

この松陰のいう「忠義」と「功業」。いまの言葉に変えていえば、報酬を求めぬ「私心なき真心」と、功名心にとらわれた「政治的方便」ということになろう。そしてそれは大義に死を覚悟する革命家と、功名に生きる政治的人間との違いであった。

松陰は、こうも話をつづける。
「たとえ我が身がどうなろうと、身を賭して正義を明らかにすべきではないか。それでこそ、“時”をつくり、時代を開いていける。いまやらねば、いつやるのだ。このまま、おめおめと生き、革命の火種を消してしまうのか」

「上手に“生きよう生きよう”と立ち回るのは“功業の人”である。国家のためにと言いながら、生きて功名を立て、革命の甘い汁を吸おうというのか」

「高杉よ、久坂よ、“時を待て”とは何たる言い草だ。皆、苦労もせず、“ぬれ手で粟”で、功名のみを得ようというのか」と。

もちろん革命時の言葉であり、今の世にそのままあてはまるものとは考えにくい。しかし、松陰が言いたかった「革命のための人生」なのか、「人生のための革命利用」なのかという生き方は、普遍的なものなのかもしれない。

昨今の日本の政治状況を見ても、何のための政治なのか、誰のための政治なのかという一点が忘れ去られている。松陰がその状況を見たならば、はたしてどんな檄を飛ばすのであろうか。

松陰死後、高杉晋作はどの弟子よりも師の心を汲み取り、一閃討幕の道を歩みだす。そして彼亡き後、明治の政府を作りあげたのは、まさに革命を利用した政治的人間たちであった。

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