1996年、ひとりの偉大なラガーマンがこの世を去った――北島忠治。95歳で天寿をまっとうするまで、67年間明治大学のラグビー部の監督であった人物である。彼が昭和4年に監督に就任して以来、一貫して選手に言い続けていた言葉がある、「前へ」。短いけれど非常に奥が深い言葉なのだ。
逃げたりためらったりするな
勝利よりもラグビーをプレーする人間の成長を愛する精神――それは北島イズムと呼ばれ、彼自身も「北島忠治という哲学」などといわれている。昭和4年から95歳でこの世を去るその日まで、67年もの間ラグビー部の監督を務め続けた北島監督の人生は、明治大学ラグビー部と一緒に語られる。
“重量フォワード”と呼ばれる、豪快でパワフルな突進をもち味とした明治大学ラグビー部を確立した彼の信念は、「前へ」。北島ラグビーを一言に凝縮した言葉である。相手ゴールに最短距離で行くには「横へ」ではなく「前へ」である。最短距離へ進めば当然相手の抵抗力も強くなる。そのために強靭な体力とスピードで、まっすぐ突破する。それがいまでも受け継がれている、北島監督が作った「重戦明治」のラグビーである。
ボールを持ったら躊躇するな。自分の判断に従え。逃げたりためらったりしなければ失敗しても構わない。それらが「前へ」を支える大原則となっている。この大原則は、決してラグビーだけのものではない。
仕事や人生において負けるのは諦めたとき
北島監督は67年間、ただ監督であっただけではない。人間としての生き方をラグビーを通して選手たちに教えた、“心の”教育者でもある。彼は「前へ」という言葉を人生に置き換えて使っていた。
この短い言葉には「最後まで絶対に諦めるな」という意味もある。仕事や人生において、負けるはずのないときに負けるのは、諦めたとき。だから勝てるはずのないときに勝ったというのは、最後まで諦めなかったからなのだ。
社会という世界で生きていくときこそ、この「前へ」という言葉が生きてくる。
「前へ」を貫くには、「フェアプレーの精神」が大切だと北島監督は説く。まず「心」を中心に据えて、それから「技」・「体」を鍛える。だから勝つということは心の勝利であり、勝ち方も心から正しくなければならない。
ラグビーでいえば、レフェリーがジャッジするのではなく、自分がルールを守るというもの。勝つだけが目的なら、レフェリーが見ていないところでいくらでもルールの裏はかける。そういうことを許さないのが北島イズムだ。
社会でも同じだ。会社など組織に属せば必ずルールは存在する。ルールを外れたところでの成功は、北島イズムでは成功と呼ばない。
「前へ」というのは後ろを振り向かずに小細工をしないでまっすぐ進みなさい、という北島監督の哲学である。
生涯をラグビー部監督として、北島監督が教えたのは、ラグビーに対する細かい技術ではなく、その根本のベースとなるものだ。社会に出た選手たち、そしてこの言葉に感銘を受けた学生たちの精神の根底にいまでも生きつづけ、継承されている。
95歳で天寿をまっとうした長寿の秘訣は、「昨日のことは考えない、明日のことだけ考えるんだ」ということ。彼は死ぬまで「前へ」邁進し続けた人間の見本であろう。
「前へ」――いたってシンプル、だが力強いひと言だ。