三成・家康に見る「正義とは力なり」

学生時代に「法学」を受講したさい、いきなり教授が「正義とは何か」をテーマに答えを求めはじめた。多数の学生が思うところを述べたが、私はただひと言、「正義とは力なり」と回答した記憶がある。それはまさにその頃、司馬遼太郎氏の傑作「関が原」を読みきり、石田三成の生涯に共感を覚えていたからに他ならない。

家康を糾弾した19万石大名・三成

天下分け目の関が原の合戦、東西に分かれ、日本の雌雄を決した戦の一方の雄は徳川家康。一方は旗頭は毛利元就となっていたが、事実上の采配は石田三成がとっていた。これは誰でも知っていることだ。

では関が原の合戦とはどういう戦だったのか。簡単にいってしまえば秀吉亡き後、その継続こそが信義とされていた豊臣政権を、家康が奪取するための戦であっ た。だから関が原の合戦に至るまでの、家康・三成の双方の言い分、手順を見比べていけば、明らかに三成に正義がある。

家康が、一度は主君と仰いだ人物から、その子の行く末を拝むようにして頼まれ、しかも誓詞まで書いてそれを請け負ったにも関わらず、最後には遺児・秀頼を 炎のなかで焼き殺したことだけはたしかな史実だ。もちろん戦国の世に青臭い正義の理屈が通用するとはとうてい思えないのだが、心象は悪い。

司馬遼太郎の作品を読んでいくと、秀吉の死直後から家康の運動は開始される。禁じられていた政略結婚を推進し、さらには五大老が合議によって決せられる事 項を専断し、また何かしらの理由をつけ首尾よく伏見城から大阪城西の丸に居を移してしまう。

100万石を超えようかという巨大な家康に伍し、わずか佐和山19万石の大名に過ぎなかった三成は、豊臣政権の五奉行のひとりとして、家康の行状を糾弾す る。しかしただ三成憎しとの感情だけで、加藤清正、細川忠興などの武断派と呼ばれる武将たちが、家康へ与してしまうのだ。

勝った家康こそが正義となる

この武断派と呼ばれる一派は、小姓から育て上げられた秀吉子飼いの大名たちであり、およそ豊臣家に逆らおうという発想はなかったはずだ。ただ朝鮮の役のさ いに、在陣総奉行であった石田三成に厳しく指弾され、感情的に軋轢を持つようになってしまう。その武断派との抗争に付け込み、家康はまんまと三成を奉行職 から追いやり、佐和山の地へと蟄居させる。

どの段階で武断派の武将たちが家康に利用された、、、、と気づいたのかわからないが(もしくは最後まで気づかなかった!?)、少なくともこの時点では三成追放こそが豊臣家安泰のための方途と信じていたはずだ。

その後三成は、五大老のひとり、上杉景勝と志を一として蜂起するわけだが、結果はご存知のとおり小早川秀秋の裏切りにあって、三成率いる西軍は惨敗を期 す。生きて再興を果たそうとした三成だが捕らえられ、処刑されてしまうことは歴史どおりだ。

重ねていうが、時の正義は石田三成にあった。主君たる秀吉の遺言のまま豊臣政権の命脈を保つため、敵となるものを排除しようというのが彼自身の行動規範で あった。しかしそれも家康という巨星の元では力およばず、勝った家康こそが正義となってしまった。三成は、徳川家安泰の江戸期という長い年月をかけて、奸 臣としてのイメージが植えつけられてしまったのである。

「正義とは力あるものに輝く」-もう20年も前の授業での回答であるが、なかなか的を得ているものと、いまでもほくそえんでいる。

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