薩摩型リーダー像

部下を見つけ、任し、責任をとる。それが薩摩型リーダー像。
明治も中頃のこと、薩摩藩の同郷のもの同士が集まり酒肴を交わしていたとき、どの人物の器の大きさを比べる話になったという。そのとき出てきた名前は、西郷従道(じゅうどう)であり、大山巌だった。

「今日もどこかで戦がごわすか」と大山

薩摩藩の指導者の資質として平時は茫洋とし、何事も部下に任せているが、一朝事があったときには最前線に躍りでて一切の責任を担うことが是とされた。その意味では従道も、大山もまさに、薩摩の典型的な指導者、リーダーであり、それは居並ぶ出席者が首肯したことでもうかがい知れる。

ところが従道も、大山も、かの西郷隆盛に比べると、その器の大きさは月と星ほどの違いがあったとの言がなされ、一同隆盛がどれほどの大きさであったのかと黙してしまったという逸話が残っている。以上、余談。

じつはこのとき話題に上った三人はいずれも血縁関係にあった。西郷隆盛と従道は実の兄弟であり、大山巌はその従兄弟にあたる。幕末から明治期をかけぬけた西郷一族には、どうやら特別の血が流れていたようだ、と司馬遼太郎氏も書き残した。

従兄弟である大山巌は、幕末においては隆盛の秘書的な役割を果たしていた。が、生麦事件後のイギリスと薩摩藩の戦い、いわゆる薩英戦争にて西欧諸国の軍事力の巨大にショックを受け、横浜にて砲術を学んだ。直後の戊辰戦争においては、自ら発明した「弥助砲」(大山は青年期に弥助を呼ばれていた)をごろごろと牽いて参戦するなど、砲兵隊長として活躍した。

日露戦争時には、満州軍総司令官として出陣。そのころにはもう茫洋たる風格を身につけ、作戦の一切を部下である児玉源太郎参謀長にまかせる。総司令官の任を受けたときには「勝ち戦は児玉さんに任せる。ただし負け戦になったら私が指揮をとる」とし、児玉が立案し裁可を求める作戦への口出しは一切しなかった。

ただ日露戦争中期の沙河(さか)会戦で日本軍が苦戦に陥り、総司令部内の雰囲気が浮き足立ったときに、昼寝(というのもすごいのだが)から起きて来た大山の「児玉さん、今日もどこかで戦(ゆっさ)がごわすか」というひと言で、部屋の空気が変わり、皆が冷静さを取り戻したという逸話が残っている。まさに薩摩型総大将の典型的な例といえよう。

「万一の時は二人で腹を切ろう」と従道

一方、従道も明治期において総理大臣以外の大臣はほぼ経験したという敏腕政治家であったが、その手法は同様だ。海軍大臣を任じたときには、同郷の山本権兵衛を見つけ出し、海軍省官房主事に抜擢して大いに腕を振るわせた。

日清戦争から日露戦争に至る期間、日本海軍は人事の大刷新を行ない、旧態依然とした将官を一切排除した。ただ当時の海軍には幕末の弾雨をかいくぐってきた薩摩の歴々がおり、その刷新は一筋縄ではいかない。

従道は、山本の「正規の海軍訓練を受けた軍人を抜擢する」とのビジョンを支持し、すべて山本のやりたいようにさせた。もちろん相応の圧力はかかったが、従道がすべてはねのけての大刷新だった。

さらに海軍大臣を退いた後にも、主力艦の手付金を払う必要が生じたが予算がない状況に陥った。もしここで手付金を払わなければ、その主力艦はロシアに売られてしまう。当時海軍大臣になっていた山本権兵衛から相談をうけた従道は「それは予算を他から流用するしかない。もちろん大変なことだから万一の時は二人で腹を切ろう」と答え、主力艦を購入した。そのときの軍艦こそ、日露戦争で大活躍した三笠である。

有能な部下を見つけ、権限を委譲しすべてを任す。しかし、いざとなったら自分が前面に出て一切の責任をとる。これがいわゆる薩摩型リーダーのあり様だ。部下を見つけ、任し、責任をとるなかに「無私」の姿勢が貫かれてなければ、心根はぶれてしまう。いまの世ではなかなかむずかしいリーダー像であることは間違いない。

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