まさに不幸の星の子 結城秀康という生き方

時代小説の稀代のストーリーテラーだった隆慶一郎の代表作のひとつに『影武者徳川家康』がある。関ヶ原の合戦において西軍の放った刺客に徳川家康本人は暗殺され、とっさの判断で影武者・世良田二郎三郎が戦の指揮をとり、東軍を勝利に導く。その後家康になりすます世良田二郎三郎と、徳川家嫡子・秀忠との激しい権力争いを書き綴った作品だ。

秀吉と家康の子、結城秀康

世良田二郎三郎は、もともとは野武士出身。白面の貴公子然とした秀忠との暗闘をものの見事に勝ちきっていくのだが、そのとき密かに味方に引き入れていたのが、徳川家康次男の結城秀康。もちろん秀康は、家康を影武者とは知らず、父として接する。その果断な性格と統率力は、三男秀忠にとっては脅威であった。

この秀康、戦国の時代に絵を描いたように数奇な人生を送ることになる。徳川家の次男として生まれたが、生母は家康の正室・築山殿の奥女中。懐妊後は築山殿のヒステリーを恐れ、家康は母親を家来である本多重次のもとに預け、その屋敷で秀康は誕生した。

その出自を家康に嫌われ、秀康は3歳のときまで父子の対面を果たせなかった。その対面も、あまりの冷遇ぶりに異母弟を哀れに思った松平信康(家康の長男)によるとりなしで実現したものだった。信康は1579年、武田勝頼との内通疑惑から、織田信長の命令により兄の信康が切腹となる。秀康が5歳のときだ。

本来なら次男である秀康が徳川の後継者となるはずでだったのだがそれも適わず、家康と羽柴秀吉が和解するときの条件として、秀康は秀吉のもとへ養子(実際は人質)として差し出されることとなった。その直後、元服して養父・秀吉と実父・家康の名を取り、「羽柴秀康」と名乗ることとなる。

家康は秀康が、豊臣に入ったことから後継者の資格がないと考えたのか、早々と三男である秀忠を将軍に決めてしまう。その後秀吉も、自らの後継者を甥の秀次に決めるため、秀康は、鎌倉時代から続く、没落した名家・結城氏を継ぐことになるのだ。

秀康早逝に秀忠の陰謀説!?

秀康は関ヶ原の合戦では、会津・上杉家の抑えとして領地・宇都宮に残る。家康の命に従った秀康は、幼き頃から交情がなかった父・家康の思いに応えようとその任を果たす。だがそれは関ヶ原の地で嫡子・秀忠の名をあげさせ、後継者の地位を確かなものにするための家康の措置だった。

一方で関ヶ原の戦いで秀忠が途中の信州上田城で足止めを食い、肝心の決戦に遅れてしまうなど失態を見せる。家康としては地団太を踏む思いであっただろう。なにしろ秀康は、徳川の家臣団にも、武断派の大名たちからも武将としての才能を評価され、将来を嘱望されていたのだ。

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