エレキテルだけじゃない 日本のダ・ヴィンチ平賀源内

本草学者・電気学者・科学者・発明家・博物学者・蘭学者・アーティスト・起業家・プランナー・プロデューサー・陶芸家・作家・戯作家・鉱山家・・・・・・。枚挙にいとまがないこれらの肩書きはすべてひとりの人物のものである。奇才、平賀源内だ。エレキテルの発明家として有名なマルチ人間の、知られているようで知られていない、数々の偉業とは――。

元祖マルチ人間

エレキテルといえば平賀源内、平賀源内といえばエレキテル、といわれるほど、後世まで発明家として有名な平賀源内。享保13(1728)年、高松藩足軽の家の三男として生まれ、本名を国倫(くにとも)という。24歳のときに藩命で長崎に留学し、本草学者・蘭学者として名を成し、藩における薬坊主格となる。しかし、好奇心旺盛であらゆる分野に手を出したい源内は、ひとところにはとどまれず33歳で脱藩。自由な生き方を選んだ彼は、51歳でその生涯を閉じるまで、波乱万丈な人生を送る。

科学者・電気学者・発明家としては、エレキテルのほか、万歩計、寒暖計、磁針器など100種にもおよぶ発明品を残した。作家としては「福内鬼外(浄瑠璃号)」「風来山人(戯作号)」というペンネームで、江戸のベストセラー作家となった。羊を飼い、羊毛からラシャ織(国倫織と名づける)を、ビジネスとして日本で初めて行なったり、日本で初めて油絵の洋画を描き、遠近法を導入したりといった“初めて”の多い人物でもある。まさに元祖マルチ人間といえよう。その奇才ゆえに“日本のダ・ヴィンチ”と称される。

日本初、全国物産博覧会の開催

いまでこそ、全国の物産をひとところに集めての物産博覧会などのイベントは、毎年当たり前のように開催されている。これを、交通や輸送の便が現代とは比較にならない江戸時代に開催している。薬品や薬草の博覧会「東都薬品会」というイベントの仕掛け人は、本草学者の平賀源内である。

源内のプランによると利点は3つある。ひとつは、日本にはないと思って海外からとんでもない値段で輸入していたもの(たとえば高麗人参)も日本のどこかから見つかるかもしれないこと。それは国益につながる。2つめは、定期的に開催することで、地方間での流通と物流が生じること。何を考えるにしても、ビジネスに結びつけるのが彼の特徴なのだ。3つめは、現物を見ることで、本を見るよりも本草学者たちは勉強になるという学者にとっての利点。

アピール方法が面白い。半年前から案内状、いまでいうダイレクトメールを作成し、全国の研究家に送りつけて出展を呼びかけている。飛脚問屋を支援者にしたことで、全国の研究家からの輸送を無料にしたというのも賢い。また、博覧会の開催後には、出展された商品をデータとして残し、図鑑「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」を刊行、世間の注目を浴びたのだ。

日本最初のコピーライター

戯作家として名声が高かった源内に、「漱石香」という歯磨き粉の口上を書いてほしいという依頼があり、宣伝文を作成している。この仕事から「平賀源内は日本最初のコピーライターである」という人もいる。じつは源内は宣伝の名人。清水義範氏の『源内万華鏡』には、その宣伝文句が次のように載っている。

「トザイトウザイとはじまって、私は商いの損が続いていて困っていて、何ぞ元手のいらぬ商売はないかと考えて、この歯磨き粉を売ることとなった。第一に歯を白くし、口中をさわやかにし、悪いにおいをとり、などといろいろいうが、きくきかぬは夢中にて一向存ぜず、たかが歯磨き粉なればきかずとも害にはなりますまい。お引き立ての程隅から隅までどうぞよろしく」

きくきかないは知らない、というような悪ふざけのコピーに、粋な江戸人々は喜んで興味を示すだろうというのが源内のねらいである。清水氏は「宣伝用のコピーというものはまず人目について、興味をかきたてるものだということをよく知っている優れたコピーライターだ」と称賛している。

コピーライターとしては、商売に困っている馴染みのうなぎ屋のために、土用の丑の日にうなぎを食べる、といった宣伝文を作ったという話が有名だが、事実かどうかは定かではない。

神社の破魔矢も考案した!?

江戸の矢口にある新田神社というところの神官と源内が話をしていたときのこと。社領に篠竹が鬱蒼と生えていて刈りたいというような話を神官がした。そこで源内は名案を思いつく。その篠竹を刈って羽をつけ、矢の形にする。神験あらたかな、厄払い、魔よけの効果があるとして、売り出してみてはどうか、というものだ。

神社がいわれたとおりにしてみたところ、大人気で売れに売れた。我々が神社初詣などに行って購入する破魔矢、あれは源内のアイデアだったのだ。奇想天外の商才である。

超有名プランナー

源内は、菅原櫛という伽羅の木に象牙の歯が植えられた櫛を作った。値段も現在の1万5000円~2万円といわれる高級品である。そんな高価な櫛だが、わずかの間に100枚以上も売れたという。

その秘密は宣伝キャンペーンにあった。当時の吉原で超売れっ子だった遊女にまず贈り、そのクチコミで世間の噂になるように仕掛けたのだ。人気アイドルを起用してCMをしたようなものである。

また、ペルシャからヨーロッパに広まり、17世紀のオランダで大量生産された金唐革という革の装飾品がある。ヨーロッパでは壁や家具に使われた。源内は、長崎で目にしたのだろうか、金唐革を国産で作ってみせた。それも、紙のまがいもので、である。割安なのに、革に見劣りがしない紙製の金唐革は、煙草入れや財布に使われ、江戸で大流行した。

当時は「源内が作ったものならば、それは面白いものに違いない」と、仕掛けたものは何でも話題になった。売れっ子プランナーというところだろうか。

どんな分野にも才能を発揮する、多才な平賀源内が、現代に生きていたらどんなにか有名人になっていたことだろうと思う。少し、生まれるのが早かったような気がしてならない。

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