リサイクル意識の高揚からか、たとえば外食企業などでは生ゴミを自ら集積。近郊の契約農家へと運んで肥料とし、野菜を作り、原材料として使用する試みが見られるようになった。これじつは、江戸時代におけるリサイクルシステムにほかならないのだ。
ハウス栽培を江戸時代に!?
最盛期で130万人もの人口を誇っていた江戸は、当時の世界のなかでも有数の過密都市といわれている。いうまでもなく社会衛生の問題は最重要の課題であったという。
江戸開府初期のころは生ゴミや排泄物を、江戸の人々は川や堀や下水に流していた。排泄物を水路に垂れ流すことで川底が浅くなり、舟の運行に支障をきたしたために、幕府もお触れをだし禁止していたほどだ。
都市としての体裁がようやく整ってきたのは、1650年ごろから。ちょうど時代は元禄年間にさしかかって、いわば高度成長期に入っていく時期だった。そして都市の成熟がはかられるとともに、江戸近郊の農家では市場向けの野菜を作りはじめる。農家では、まずひとつには一日でも早く野菜や果物などを生産しようと、生ゴミを肥料に使うこととなる。
生ゴミを地面に埋め、発酵させて温度を上げ、その地面を油紙でおおって熱を逃がさないようにしたのだ。まさに現在のハウス栽培と同じ考え方だ。あわせて幕府は生ゴミを使って海岸線を埋め立てるなど、1700年代初頭には、江戸におけるゴミの循環システムも整っていったといわれている。
一方で排泄物も農作物を作るための貴重な肥料ともなったので、川・堀や下水に流してしまうという習慣は次第になくなっていったという。業者によって取り引きされ集められた排泄物は、舟に乗って千葉や埼玉へ運ばれ、そこでまた取り引きされていた。
千葉や埼玉など近郊に広がる水田は、いまでいう浄水場としての機能を果たし、排泄物は稲の栄養になり、汚れていた水は泥のろ過作用によって、きれいな地下水になっていったのだ。
貴重な“商品”であった排泄物
江戸の住人たちの年間ひとり当たりの排泄物排泄量を平均600リットルとすると、当時の人口を100万人として60万キロリットルになる。だがそれでも江戸周辺の農家への肥料の量としては慢性的不足状態であり、とくに江戸時代後半は供給不足が著しかった。
結果、江戸近郊の農家による排泄物は、肥料としての価値が高まり価格の高騰を生み出した。糞尿は排泄物どころか貴重な商品だったのである。したがって江戸の市中に、これらが放置されることもなく、町々が不潔で非衛生的になることはなかった。
同時代のヨーロッパの大都市が、排泄物を肥料にという発想がなかったため、ところかまわず排泄物が投棄され、コレラなどの伝染病で何千人も命を失った。しかし、江戸では、コレラはほとんど発生していない(日本にコレラが流行ったのは幕末に外国人が来日するようになってからだ)。ヨーロッパに比べても、江戸の処理システムははるかに優れたものだったのだ。
現代から江戸時代に生活を戻すことは不可能ではあるが、結果として先進的な取り組みとなったその手法は十分に学んでいくべき事柄であることは間違いない。